五日の節会のセレモニーの中で糸所から献上された薬玉は、女蔵人 (にょくろうど) によって臣下達に配られました。彼女達を「あやめの蔵人」といいます。
申次 (もうしつぎ) や伝奏 (てんそう) 達は外の世界で活躍しましたが、彼女達は儀式の中の「薬玉の使者」です。彼女達の活躍ぶりをレポートします。

女蔵人とは、内裏、宮院に仕えて雑用を行う職の人です。 律令制で身分のある (五位以上) の女官、または官人の妻、 後宮十二司のひとつの内侍司 (ないしのつかさ) の下に位置しました。

花鳥余情 (一条兼良 (いちじょうかねよし (またはかねら)) 著 / 1472 成立 / 源氏物語の注釈書)
五月五日のせち
五月五日の節 天皇あやめのかつらをかけ給て武德殿に行幸あり 内辨外辨等節會のことし 宮内省献菖蒲 内侍女藏人 續命縷を群臣に給ふ 三献をはりて 六府騎射の事あり (参考文献 :『國文註釋全書』本居豊頴, 木村正辭, 井上賴囶 校訂. 國學院大學出版部, 1910.)

平安時代の儀式書と古記録を開き、五日の節会であやめの蔵人がどんなふうに活躍しているか、そのシーンにスポットを当てます。

「西宮記」では、続命縷下賜の条に「女蔵人」のほか「内侍」の文字もあります。 内侍 (ないし) とは、内侍司 (ないしのつかさ) の女官の総称です。

西宮記 (さいぐうき、せいきゅうき、さいきゅうき : 源高明 (みなもとのたかあきら : 914 - 983 年) 著。成立年未詳。平安時代の有職故実書)
五月「供菖蒲」據目次補記
三日、六府立菖蒲輿瓫苑 各一荷、花十捧、 南庭、見近衞府式也、先申内侍
内藏寮官人、行事藏人等、給絲所女官、
四日夜、主殿寮内裏殿舎 (「内裏二字无」) 葺菖蒲、不見式
五日早旦、書司供菖蒲二瓶、居机二脚、立孫廂南四間生 (「生ナシ」) 近代不見
絲所獻藥玉二流、又差内豎送諸寺
藏人取之、結付晝御座母屋南北柱、撤朱須臾 (茱萸) 嚢、改着彼所請料絲

或本 (下) 二人
無節會之時、典藥供菖蒲机四脚、二脚供御、立明義門前廊下、人給料、立下侍西邊、 内藏寮官人撤之、見式也(中略)續命縷内侍執之、直度御前、當太子倚子西南立、太子起座、北面跪受、内侍跪授之、太子少拜立、内侍還入、女藏人等又執之、進御前東廂西面列「立」、 王卿以下一々進、共跪捄笏受、小拜左廻、下自南面東階、出東南庭一列、「西面北上」太子先佩拜着座、懸右肩垂左腋、 卽相分其緒結腰、次王卿共佩拜舞、畢復座、承和年依降雨、於東檻邊跪佩之(中略) 少輔進就奏事位、奏諸王臣姓名馬毛「色」、了復本位、依次入埓北度了、此間大臣奏可召兵部卿之狀、 勅許了、令内竪召、卿卽参上、賜續命縷、降自殿、當左近陣西北邊、北面再拜、當殿南一間、「西上」後參人此次可給如上、 (中略) 天暦九王卿着外辨、雨降、王卿㓨簦、自馬駐經雌埒南邊、斜渡自官幕後、到殿坤角、天皇御座定、内侍召人、内辨經殿南砌、 昇自巽角階着座、王卿又直登着座、次給藥玉、各還立本座下、共跪佩之、 (参考文献 :『改訂増補 故実叢書 西宮記』故実叢書編集部. 明治図書出版, 1993.)

実際の記録

九條殿記には、天慶七年 (944 年) に行われた五日の節会の様子が、つまびらかに記されています。
この日の続命縷下賜 (しょくめいるかし) のイベントの時は、大雨だったようです。跪 (ひざまず) いて続命縷を給わったけれども、いつもの拜舞は行わなかった。というようなことのようです。

九条殿記 (くじょうどのき : 藤原 師輔 (ふじわらのもろすけ、908 - 960 年) 著 / 930 - 960 年 / 平安中期の公卿 藤原師輔の日記)
天慶七年五月
五月五日の節會
女藏人續命縷ヲ御前ニ進ム
親王等ニ給フ

女藏人十二人續命縷、出從御座北、進於御前東庇、 西面烈 (列) 立、第一者留立南第四間、 式部卿一品敦實親王 件親王雖不候烈 (列)、依有先年宣旨昇從掖着座、 幷今朝預烈 (列) 親王三人 (重明 · 有明 · 章明) · 納言三人 (顕忠 · 元方 · 師輔) · 參議五人 (高明 · 保平 · 庶明 · 在衡 · 師氏) 一〃給續命續 (縷) 、小拝下殿、此間雨脚密、降 貫首親王湏暫立留相議烈 (列) 立、 而早出庭中、此間雨脚尤滋、衣冠悉以滋 (濕) 泥、見聞者无不嘆息、後聞、 承和十一年依庭泥給續命縷、立草墪後佩云〃、
雨ニ依リ拜舞ヲ行フ能ハズ
王卿共議入殿東借庇内、件借庇以席覆、雨脚難礙、然而跪佩、但不能拜舞、 昇殿着座、此間雨脚已止、裝束使誤而以平文大床子 · 毯代等設東庇、依勅右近少將良岑義方朝臣 · 少將藤原朝臣朝成昇自北」面東階、撤件御座、 (中略) 親王以下續命縷ヲ佩シテ舞踏ス
女藏人七人續命縷立先處、親王以下一〃賜之、 下殿烈 (列) 立東面南階以東、 北面西上、續命縷再拜畢、佩縷舞蹈、㧞笏再拜、着座、或云、西面北上可立、或云、是宜也、 式云、後參之人立左近陣西北邊北面拜舞者、然則今日後參之王卿、失而差北進拜舞、

(中略) 今日違例親 (雜欤) 事、
一、賜續命縷間雨脚俄降、而不求雨儀例、猶立庭中」衣冠悉温 (濡) 事、 (参考文献 :『大日本古記録 九暦』東京大学史料編纂所. 岩波書店, 1958.)
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清少納言は著書「枕草子」で、あやめの蔵人を「なまめかし」と表現しています。「なまめかし」とは、優美だ。優雅だ。上品だ。などの意味です。

枕草子 (まくらのそうし : 清少納言 著 / 996 - 1000 年頃成立 ? / 平安時代の随筆)
優婉 (なまめかし) きもの、
五月 (さつき) の節 (せち) のあやめの蔵人 (くらうど) 。 菖蒲 (さうぶ) のかづら、赤紐 (あかひも) の色にはあらぬを、 領布 (ひれ) 、裙帯 (くたい) などして、 薬玉、皇子 (みこ) たち上達部 (かんだちめ) の立ち並 (な) みたまへるに奉れる、 いみじうなまめかし。取りて腰にひきつけつつ(注1)、舞踏 (ぶたふ) し、 拝したまふも、いとめでたし。
  • 現代語訳 :
    五月の節会 (せちえ) のあやめの女蔵人 (にょくろうど) 。 髪に菖蒲のかずらをつけ、赤紐のような派手 (はで) な色ではないが、紐をつけて、領巾、裙帯 (くたい) などをまとって、 薬玉を親王 (みこ) たち、上達部 (かんだちめ) が立ち並んでいらっしゃるにさしあげるのも、 たいそう優雅だ。 薬玉を受け取って、腰にひきつけひきつけなどして、御礼 (おんれい) の拝舞 (はいぶ) をなさるのも、 たいへん御立派 (りっぱ) だ。 (参考文献 :小林栄子『枕草子 日訳新註』言玄海書房, 1935.)
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続命縷下賜の行事を含む五日の節会のセレモニーは、平安時代後期には廃れてしまいます(注2)。 おそらく、美しく拜舞をし、臣下たちに薬玉を配ったあやめの蔵人たちの役目も終わったのではないかと考えれます。

後世にもずっと続く申次や伝奏の活躍とは比べものにならないほど、儚い存在でしたが、国風文化の一作品 (枕草子のこと) にその美しさが讃えられるほど、彼女達の存在が大きかったことは確かです。

注釈 / 参考文献

注釈

参考文献

  1. 『新編 日本古典文学全集 18』松尾聰, 永井和子 校註. 小学館, 1997.

レポート : 2011年 7月 17日

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