匂袋 (においぶくろ) とは練り香を袋に入れたもので、項 (うなじ) にかけたり、袂 (たもと) に入れるなど身につけたりして用いられます。 歴史は古く、正倉院には裛衣香 (えびこう) (注1)という匂袋の原型といわれるものが現存しています。

香嚢 (こうのう) や訶梨勒 (かりろく) (注2)などを柱に掛けて 魔除けとしたことをはじめ、薬の玉 (香料を詰めた丸い袋。匂玉) (注3)を薬玉の真ん中に添えたり、 また、薬の玉に五色の糸を垂れて、掛香薬玉としたり、薬玉とお香の関係はとても深いようです。
辞典の「匂袋」の説明に耳を傾けてみます。

世界大百科事典 第二版 (平凡社)
平安時代、宮廷人の身だしなみとして、空薫 (そらだき) やえび香などの習慣が広まったが,香料を袋などに入れて現代の香水のように身につけたり、室内に掛けて邪鬼を払う薬玉 (くすだま) として使った。これが香囊 (においぶくろ) で、掛香ともいう。 (参考文献 :『世界大百科事典』平凡社, 2006.)
日本大百科全書 (小学館)
金襴 (きんらん)、錦 (にしき) などの高級織物の小さな袋の中に、丁子 (ちょうじ)、じゃ香、白檀 (びゃくだん) などの 香料を入れたもの。主として腰提げ、懐中物あるいは衣服の間に入れた。元来は邪鬼を払うために利用された薬玉 (くすだま) の変化したものである。 (参考文献 :『日本大百科全書 17』小学館, 1987.)

これほど深い仲だったとは。
などという感想はさておき、ふたつの辞典を参考にすると、匂袋は、薬玉として使ったもの、あるいは薬玉の変化したもの。ということのようです。 もっと何かあるかもしれない。と、薬玉と匂袋の関係を詮索したいと思います。

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匂袋の記録

戦国時代から江戸末期まで書き継がれた、天子近侍の女官達の当番日記「御湯殿上日記」に、端午の節句に匂袋を贈答しあった記録が残されています。

一番始めの記事は、安土桃山時代の天正 15 年 (1587 年) 5 月 4日です。

御湯殿上日記 (おゆどののうえのにっき : 1477 - 1820 年間 / 禁中御湯殿上の間で、天皇近侍の女房が交代で記した当番日記)
  • 天正十五年 五月
    四日。はるゝ。 小野より 御しやうふまいる。しやうふの御てんもまいる。しやうふの御枕 かなへとあすとる。女中。院の女中しゆうに 匂いふくろたふ。

このあと、断続的に五月五日前後あたりの記事に「匂袋」の文字が踊るようになりますが、江戸時代の延宝 4 年頃からは、ほぼ毎年「匂袋」が踊っています。かなり激しく。乱舞。かもしれません。たとえば、こんな感じです。

  • 延寶四年 五月
    法皇の御かた。本院の御かた御にほひ袋。御おひ。御あわせまいる。 新院の御かたへ御にほひふくろ。御あわせ。御おひ代 まいる。 女院の御かたへ御にほひ袋。御ねもしの 御あわせ。御ふく 一かさね。御おひまいる。 宮〳の御かた。御門跡かたへも御匂ひふくろ まいる。 四御所の女中衆 大にし殿。小一てう殿。ゑん光院殿。あつまきしふ春の御しうき御返し。御にほひふくろくたさるゝ。女五の宮の御方。しなの宮の御かた 御くはり 御ふくまいる。女御の御方へ 御ねもしの御あわせ。御ふく。 御にほひふくろ まいる。 兩御所へも 女御の御かたへも 御使なかはし也。本院の御かた。新院の御かたへ文にて 御しうきまいる。 本院の御かた。新院の御方より 御まなまいる。女院の御かた。女御の御かたより まき。御たる。さかな まいる。 内侍所より 御くま まいる。攝家かたへも御にほひ袋 まいる。 しきし衆まいらるゝ。内々。外様おとこたち。女中衆。すへ女しゆ。御物したち。末々ひつかさ御にほいふくろくたさるゝ。 しやうふの御きやう水まいる。夕かた 御いわゐ いつもとおなし。
  • 延寶六年 五月
    五日。はるゝ。 あさ 御さか月まいる。法皇の御かた。新院の御かたへ 御にほひふくろ。 御あわせ。御おひ代まいる。 本院の御かたへ御にほひ袋。御あわせ。御おひまいる。 女院の御かたへ御にほひふくろ。御ねもし。御ふく 一かさね。御帶まいる。 法皇の御かた。女院の御かたへは 長はし御使に まいらせらるゝ。 兩御所へは 文にて まいる。女中へ春の御返し御にほひふくろ くたさるゝ。 女御の御かたへ御匂ひふくろ。御ねもし 御ふく。御おひまいる。 此御所の宮〳の御かたへ くす玉 まいる。 宮々の御かた。もんせきかた御匂ひふくろ まいる。 攝家かたへは はうしやう辨 御使にまいらるゝ。五の宮の御かた。 品の宮の御かた。ゑんせう寺殿へ御にほひふくろ 御くはり。 御ふくまいる。院女御の御かたへ御にほひ袋まいる。
  • 延寶八年 五月
    法皇の御方。本院の御方。新院御方御あはせ。 御匂ひ袋。御帶まいる。なかはし御使まいらるゝ。 女御の御かたへ御にほひ袋。御ねもし 御あわせ。御おひ まいる。 御ふく 御くはりもまいる。本院の御方。新院の御方より 御まなまいる。 女御の御かたより まき二色。御たるまいる。宮〳の御かたへ御くす玉御匂ひ袋。内々門跡。宮宮の御かたへ まいる。攝家かたへも御にほひ袋 まいる。 三御所女中 大にし殿。小一條殿。御めのと。少なこん 御にほひ袋 春の御歸し下さるゝ。 此御所の女中。おとこたち。非藏人。其外すゑ〳まて 御にほひふくろ下さるゝ。 法皇の御かた。本院の御かた。新院御かたへ御にほひ袋。御あわせ。御おひまいる。 女院御かたへは御にほひふくろ。御ふく二つ。御ねもし。 御おひ まいらせらるゝ。長はし御使まいらるゝ。 宮宮の御かた。もんせきかたへも御にほひ袋 まいる。 (参考文献 :『続群書類従 補遺 三 お湯殿の上の日記』塙保己一 編纂, 太田藤四郎 補. 続群書類従完成会, 1932.)

服、帯、袷 (あわせ) など、服飾に関することがここまで詳しいのは、さすが女性の書いた日記だと感心させられます。
延宝八年の記事に「此御所の女中。おとこたち。非藏人。其外すゑ〳まて 御にほひふくろ下さるゝ」とあることから、匂袋は性別や身分、職業に関係なく、さまざまな人たちに贈られたことが分かります。また、薬玉と匂袋の文字が一緒に並んでいることから、匂袋イコール薬玉ということではない。ということも分かります。

匂袋は辞典にあるように、あくまで「薬玉として使った」あるいは「薬玉のように使った」魔除けのひとつだっただと想像します。

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薬玉と匂袋の関係について理解を深めるため、さらに詮索したいとます。

お香を柱に掛けて魔除けとする習慣 (掛香、訶梨勒) や、 端午の節句の匂い袋の習慣は、どのようにして起こったのか。
をマジメに考えてみました。

Mio さんの仮説

答え :

これは、Mio さんの仮説です。

端午の節供が生まれたのは、古代中国です。もちろん現在も続いていて、旧暦の五月に盛大にお祝いします。 そしてその端午節に欠かせないグッズのひとつに「香包」というものがあります。いわゆる匂い袋のことです。 長命縷と同じく、邪気を払うなどの意味があり、古代は「香嚢」「荷包」などと言われたそうです。

日本ではさっぱりなじみの無い風習ですが、台湾には伝わっていて現在もあります。韓国とベトナムは未詳。 (そのうち (!)、リサーチ予定)

さて、この風習が中国のいつぐらいからあるのかを調べてみました。
とりあえず見つけた古い記録は、宋代 (960 - 1279 年) 杭州の繁盛記「武林旧事」です。

武林旧事 (ぶりんきゅうじ : 周密 (1232 - 1298 年) 撰 / 1290 年以前の成立とみられます / 中国南宋時代 杭州の繁盛記)
端午 (中略) 五色葵榴 金絲翠扇 真珠百索 釵符 經筒 香囊 軟香龍涎佩帶 及紫練 白葛 紅蕉之類。

「端午」の項目に「香嚢」という文字があります。
また、端午の節句ではありませんが、匂袋を魔除けとして用いたという記録なら、さらに時代を遡ることができます。

杜陽雑編 (蘇鶚 撰 / 成立年未詳 / 唐 (618 - 907 年) 代の小説集)
公主乗七宝歩輦 四面綴五色香嚢 嚢中貯辟寒香 辟邪香 瑞麟香 金鳳香

まとめてみる

Mio さんは中国の風習伝来説を自信満々で唱えていますが、結論は「ナゾ」。

日本の端午の節句の匂袋の習慣と、中国の端午の節句の香包のそれぞれの起源について、可能性があるかもしれないことを三つ考えてみました。

  1. 日本の匂袋の習慣は、中国の風習の輸入。
  2. 日本の匂袋の習慣は、日本で生まれた独自の文化。
  3. 中国の端午の節句の香包は、日本の文化の輸出。

いずれにしても、日本の端午の節句の匂袋と、中国の端午の節句の香包とが、なぁーんにも関係がない。 ということは、ない。んじゃぁないだらぁか (鳥取弁)

さらに、匂袋にとどまらず、薬玉に付ける「薬の玉」や、柱に飾る「香嚢、訶梨勒」なども、ひょっとしたらこの中国の風習に何か関係があるんじゃぁないだらぁか。
妄想は止まりません。

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注釈

レポート : 2012年 12月 10日

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