なぜ、薬玉が作られたのか。なぜ、薬玉が必要だったのか。薬玉が生まれた理由はなんぞや。
せっせと折り紙を折っていると、炭酸水の泡のようにぷくぷく疑問がわいてきます。
薬玉 (長命縷) が生まれたのは古代中国、おおざっぱに紀元前、後あたりだと想像します。 このナゾを解くべく、薬玉に関係ありそうな古代中国の風俗、故事をたずねてみます。

薬玉のパワー

いずれの辞書にも説明があるように、薬玉は「不浄を払う」やら「邪気を避ける」やら、はたまた「延命、長寿を叶える」やらなんやらかんやらと言われていて、まるで、色んなものに姿を変えて小坊主さんを守った「三枚のおふだ (日本の民話だった。ような。)」のごとく、その持ち主に対して驚異的な力を発揮すると言われています。

そして、その薬玉のパワーは、のんべんだらりとした (かどうかは分かりませんが) 平穏な日常ではなく、主に、決まった時期に期待されました。
それは、

答え :

21 世紀の現在、薬玉はいつでもどこでも大腕を振って跋扈 ( ! ) していますが、元来薬玉は端午の節句に用いられたアイテムです。
端午の節句がある 5 月、そして、薬玉。何か、関係がありそうです。

五月は悪月

五月の異称には「皐月 (さつき) 、佐月 (さえづき) 、早苗月 (さなえづき) 、菖蒲月 (しょうぶづき) 」などがありますが(1)、中に「悪月」というものもあります。 大辞泉 (小学館) で「悪月」を引くと

とあります。
五月の異称から辿ったことだし、薬玉は中国伝来なので、まずは 3. の、「中国で 5 月を凶事の多い月とし、また、5 月 5 日の出生を凶とした」について調べてみることにします。

「5 月を凶事の多い月とし」について

中国古代の年中行事を記した荆楚歳時記 (けいそさいじき) の「五月」の項を見ると、いきなり 「五月俗称悪月 多禁」 と書かれています。

荆楚歳時記 (梁 (りょう) の 宗懍 (そうりん : 501 - 565 年頃) 撰 / 6 世紀中頃までに成立 / 全 1 巻。荆楚地方の年中行事、風俗故事の記録)
(二八) 五月俗稱惡月 多禁 忌曝床薦席 及忌蓋屋 按異苑云 新野庾寔嘗 以五月曝席 忽見一小兒死在席上 俄而失之 其後寔子遂亡 或始於此 風俗通曰 五月上屋 令人頭禿 或問董勛曰 俗五月不上屋 云五月人或上屋 見影魂便去 勛答曰 蓋秦始皇自為之禁 夏不得行 漢魏未 改 按月令 仲夏可以居高明 可以遠眺望 可以升山陵 可以處臺榭 鄭玄以為順陽在上也 今 云不得上屋 正與禮反 敬叔云 見小兒死而禁暴席 何以異此乎 俗人月諱 何代無之 但當矯之 歸于正耳

読下し(2) :
五月は俗に悪月と称して、禁多し。牀 (しょう : 寝台) の薦席 (しとね) を曝 (さら) すを禁忌し、及び屋を蓋 (おお) うを忌む。
按ずるに「異苑」に云う。「新野の庾寔 (ゆしょく) 、嘗 (つね) に五月を以て席を曝す。 忽 (たちま) ち 一小児の死して 席上に在るを見るも、俄 (にわ) かに之を失う。 其の後、寔の子遂に亡す」と。 或いは此れより始まるか。「風俗通」に曰く。「五月に屋に上 (のぼ) らば、人の頭をして禿げしむ」と。 或ひと、董勛 (とうくん) に問いて曰く、「俗、五月には屋に上らず、伝えらく、五月人或いは屋に上り、影を見れば 魂便 (すな) わち去る」と。 勛答えて曰く、「蓋 (けだ) し 秦の始皇は、自ら之を禁として為り、夏、行うを得ず。漢魏未だ改めず」と。「月令」を按ずるに、「仲夏 (五月) は、以て高明に居るべし、以て眺望を遠くすべし、以て山陵に升るべし、以て臺榭に処するべし」と。 鄭玄 (じょうげん) は「以て為 (おもえ) らく、陽に順いて上に在るなり。 今、屋に上るを得ずと云うは正に礼と反す」と。敬叔云う。「小児の死するを見て席を暴 (さら) すを禁ずるは、何を以て 俗人、月の諱 (いみ) 、何れの代か之無からん。但だ当に之を矯 (た) めて正に返すべきのみ」と。

確かに、五月が俗に悪月とされることが書かれてあります。しかし、残念ながら、なぜ 5 月が悪月なのか、荆楚歳時記にはその説明がありません。
荆楚歳時記の注釈者、守屋氏は、

とされています。しかしながら、引用の「礼記」のとおりだとすると、悪月の由来は陰陽説に関わっていると言えるかもしれません。

「5 月 5 日の出生を凶とした」について

古代中国では、5 月に生まれた子供が成長すると自害したり、そうでなければ両親に危害を加えるという俗信があったようです。

史記 (しき : 前漢の司馬遷 (紀元前 145 - 紀元前 86 年) 撰 : 歴史書。紀元前 91年成立。全 130 巻)
初、田嬰有子四十餘人。其賤妾有子名文、文以五月五日生。
嬰告其母曰 :「勿舉也」其母窃舉生之。

及長、其母因兄弟而見其子文於田嬰。
田嬰怒其母曰 :「吾令若去此子、而敢生之、何也」文頓首、因曰 :「君所以不舉五月子者、何故」
嬰曰 :「五月子者、長與戶齊、將不利其父母」
文曰 :「人生受命於天乎、將受命於戶邪」嬰默然。
文曰 :「必受命於天、君何憂焉。必受命於戶、則可高其戶耳、誰能至者」
嬰曰 :「子休矣」

日本語訳 (3):

初め田嬰 (でんえい) には、四十餘 (よ) 人の子供が有りましたが、其の下賤なる妾 (めかけ) の腹に男子ありて、文 (ぶん) と名づけられました。
此の文は、五月五日に生まれます、
其の時、嬰は、其の母に告げて曰く、汝が腹に出来たる子は、 舉 (あ) ぐる (あぐる : とりあげる) (なか) れ、と。
其の母は、窃 (ひそ) かに、内々にて、之を舉 (あ) げて生 (しょう : 生育する) じました。

さて、文が長ずる (成長) に及びて、其の母は兄弟に因 (よ) って、 其の子、文を田嬰に見 (まみ) えました。
田嬰は、其の母を怒って曰く、吾 (われ) (なんじ) をして此の子を去らしむ (捨てる、殺す)。 而 (しか) るに敢 (あ) えて之を生 (しょう) ずる (育てる) とは何事ぞ、と。
文は父の言葉を聞き、頭を地に付けて曰く、父君、 五月の子を舉 (あ) げてはいけないとする所以 (ゆえん) のものは何の故 (ゆえ) ぞ、と。
嬰曰く、五月の子は長戸 (たけと : 戸の高さ) と齊 (ひと) しくなれば、 將 (とき) に其の父母に利 (り) ならざらんとす、と。
文曰く、人生まれて命 (めい) を天に受くるか、將 (は) た命を戸に受くるか、と。
嬰、黙然 (もくぜん) たり。
文曰く、必ず命 (めい)を を天に受けば、父君、何ぞ憂へん。 必命 (めい) を戸 (と) に受けば、則ち其の戸 (と) を高くせんのみ。誰 (た) れか能く至る者ぞと。
嬰曰く、子休 (しきゅう) せよと。

風俗通議 (ふうぞくつうぎ : 後漢の応劭著 : 事物の名称を明らかにした書)
今の俗間に多く三子を生むを禁忌とする者あり。五月に生まるる者は、以て父母に妨害するを為し、服中の子は礼を犯し孝を傷 (そこな) ひ、肯へては収め挙ぐる莫し。

日本語訳 :
しかし現在、世間で三つ子を生んだりすることなど多く忌み嫌うことがある。五月に生まれた子は両親に危害をなし、喪服中に生まれた子は礼に背き孝行しないので、決して養育してはいけないなどである(注1)

(参考文献 :『中国古典新書続編 風俗通義』中村璋八. 明徳出版社, 2002.)

今度は陰陽道の「凶の月」について、探ってみます。陰陽道とは中国から伝わった「陰陽五行説」に基づいて吉凶 · 禍福を占う方術、思想です。もとになっている「陰陽五行説」を探っていくことにします。

陰陽五行説

「陰陽説」とは、宇宙空間の万物を、陰と陽のふたつから成り立っていると考える思想です。
また「木、火、土、金、水」を五元素として、あらゆる事物現象はその働きによるものとしているのが「五行説」です。
このふたつは紀元前 5 世紀頃までに一体になり、「陰陽五行説」という思想になりました。

前漢から新の時代には讖緯説(注2)とともに、流行ったようです。

日本には、六世紀初頭、百済から大和朝廷に派遣された五経博士によって伝えられたのが最初と言われています(2)

夏至

夏至は一年のうちで最も昼間の長い日です。そして夏至を過ぎると、徐々に日が短くなっていきます。
一年という時間を、陰陽五行説で考えるとこうなります。

余談 :
「子 (ね) 」と「午 (うま) 」を結ぶ線を、「子午線」っていいます。

(参考文献:吉野裕子『神々の誕生』岩波書店, 1990.)

このことは、随 (581 - 618 年) の時代の五行に関する本「五行大義」にも書かれています。

つまり、一年は夏至を境にして、どんどん陰の方向へと向かっていきます。そしてこの夏至があるのは、陰暦でいうと五月です。
古代中国では、この五月にたくさんの禁忌を設けたという記録があります。

呂氏春秋 (りょししゅんじゅう : 秦の呂不韋 (? - 紀元前 235 年) 著 / 成立年未詳。26 巻。先秦における諸学説、伝説などを集めた書。呂覧 (りょらん) とも)
(こ) の月や、日長きこと至 (いた) れり、陰陽争ひ、死生分かる、 君子齋戒 (さいかい) し、處 (を) るに必ず揜 (ちか) く、 身は靜 (しづ) かにして躁ぐこと無からんことを欲し、馨色 (せいしょく) を止め、進むること或ること無く、滋味 (じみ) を薄くし、 和を致すこと無く、嗜慾 (しよく) を退け、 心氣 (しんき) を定め、 百官 (ひゃっかん) 事を靜 (しづ) かにし、刑すること無く、 以て晏陰 (あんいん) の成る所を定 (さだ) む。
(参考文献 :『国訳漢文大成 経子史部第二十巻』国民文庫刊行会, 1925.)
礼記 (梁 (りょう) の戴聖 (たいせい) 編 / 中国前漢時代の経書。49 編。戦国時代、秦、漢時代の説を収録)
禮記 巻六 月令
是月也、日長至、陰陽爭、死生分、君子⿑戒處必掩身、毋躁、 止聲色、毋進、 薄滋味、毋和、 節耆欲、定心氣。 百官靜事毋刑、 以定晏陰之所一レ成。 鹿角解、蝉始鳴、半夏生、木菫榮
是月也、毋火南方。 可以居高明、 可以遠眺望、 可以升山陵、 可以處臺榭

読下し :
是の月や、日の長きこと至 (きはま) り、陰陽 (いんやう) (あらそ) ひ、死生 (ししやう) (わか) る。 君子⿑戒 (さいかい) し、處 (を) るに必ず身を掩 (かく) して躁 (さわぐ) こと毋 (なか) れ、 聲色 (せいしょく) を止 (とど) め、進ましむる或ること毋 (なか) れ、 滋味 (じみ) を薄 (うす) くし、 和 (くわ) を致すこと毋 (なか) れ、 耆欲 (しよく) を節 (せつ) し、心氣 (しんき) を 定む。 百官 (ひゃくくわん) 事を靜 (しづ) かにし、 刑すること毋 (なか) れ。以て晏陰 (あんいん) の成る所を定む。 鹿 (しか) の角 (つの) (お) ち、 蝉 (せみ) 始めて鳴 (な) き、半夏 (はんか) (しやう) じ、木菫 (ぼくきん) (はなさ) く。
是の月や、火を南方に用ふること毋 (なか) れ、以て高明 (こうめい) に居る可く、 以て遠く眺望 (てうぼう) す可く、以て山陵 (さんりよう) に升 (のぼ) る可く、以て臺榭 (だいしゃ) に處 (を) る可し。 (参考文献 :『漢文叢書 第 17 礼記』有朋堂, 1927.)

Mio さんによる鳥取弁訳(3):
こん月は夏至があっだけ。こん時にな、陰と陽のふたつの気が争って、万物を生かす力と殺す力が対立するけな、君子は斎戒 (さいかい、飲食やその他の行為を慎んで身を清めること。物忌み。潔斎) して家に居 (お) って、身を室内に隠して動かず、 顔色を変えたり、ばえたり (鳥取弁 : 騒いだり) せず、 がいな (鳥取弁 : おおきな) 声を出したりぜず、でしゃばんなえ。 食べもんは薄味にすっだぁえ、料理は余計な手を加えたらいけんけ、嗜欲 (あることを好み、欲しいままにそれをしようと思う心) は節して、心を安静にすっだぁえ。
朝廷の百官も色々静かぁに運んで、刑罰は止めっだでな。そうして、晏陰 (晏は「安」。陰の気が安まること) に成るのを待っとくだぇ。
こん頃にな、鹿の角が落ちたりな、蝉が鳴き始めたりな、半夏 (はんげ、薬草の名。古名は「ほそくみ」。烏柄杓 (カラスビシャク) の漢名。サトイモ科) が生えたりな、木菫 (むくげ。アオイ科の落葉樹) が花咲いたりすっだぁ。

んでな、こん月にはどこでもな、南の方で火を使うでないだで。高い場所 (高明 : 高明なところ。楼閣などらしいです) に 居 (お) ってな、そんで、遠くを眺めたりな、山陵に上ったりな、臺榭 (だいしゃ、台榭。中国古代の高台式建築の総称。台はうてな。土を固めて築いた方形の高台。榭はその上に築いた建物) に起居するとか、そういうのんをやってみっだぁで。

陰陽五行説の「夏至」が強烈な節目だということがわかりましたが、 冒頭に登場してもらった、荆楚歳時記 (梁 (りょう) の宗懍 (そうりん : 501 - 565 年頃) 撰。6 世紀中頃までに成立 / 全 1 巻。荆楚地方の年中行事、風俗故事の記録書) には、この陰が始まるという夏至節 (夏至のこと) に、行うとしていることがあります。

不思議なコトに夏至節にも「長命縷」が登場します。
そして、粽 (ちまき) も食べるようです。
注釈者の守屋氏の解説です。

なるほど。そう考えると、ひょっとすると「長命縷」や「薬玉」が活躍した本命の日は、夏至だったのかもしれません。

古代中国で五月が悪月とされるナゾはクリアになりませんでしたが、そこから炙り出された「陰陽五行説」または「陰陽説」は、薬玉に深く関わっていると推測します。そこで、結論。


答え :

です。

薬玉はおそらく、陰陽五行説で説かれる邪気から身を守り、命を延ばすものだったのだと想像します。
なぜ、薬玉を用いるのは「悪月」だから。とは考えず、「陰陽五行説」と関わっていると考えたのか。
その点は、こちらで得意げに語っています。 薬玉の五色の糸

世諺問答 (せいげんもんどう) は、1544 年に一条兼良、兼冬によって書かれた有識故実の本です。 年中行事の故事風俗の由来が、質問と答えという形式で記されています。 この本では、薬玉を用いる理由として、陰陽五行説からではなく気候の面から説いています。
わかりやすく、おもしろいのでピックアップです。

問て云。
同此日薬玉とてかくるは何のゆへぞや。

答。凡けふをば薬日といひて。一切の藥をばこの日とるなり。其ゆへは 諸病かならず 五月におこるなり。かんきを得て もろ〵のむし。へび。とり。けだものどもが。ちからを得ていきをはきだして。人の氣力をなやます日なり。 さればけふ藥草を五色のいとにてとゝのへてひぢにかくれば。惡氣をはらふとも申本文侍るにや。 公にも群臣に藥玉を給事の侍るなり。
(参考文献 :『群書類従 · 第二十八輯 雜部』塙 保己一編. 続群書類従完成会, 1932.)
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注釈 / 参考文献

注釈

参考文献

  1. 『角川類語新辞典』角川書店, 1981.
  2. 『荆楚歳時記』守屋美都雄 注釈. 平凡社, 1978.
    井岡咀芳『満支習俗考』湯川弘文社, 1942.
  3. 『漢文叢書』有朋堂, 1927.
    『史記列伝講義』興文社編輯所 編. 興文社, 1933.
  4. 『漢文叢書 第 17 礼記』有朋堂, 1927.
    『漢文体系 第 17 巻』富山房編輯部 編. 富山房, 1916.
    『新釈漢文体系』竹内 照夫. 明治書院, 1971.
  5. 『日本宗教事典』弘文堂,
  6. 中村璋八, 清水浩子『新編漢文選 8 五行大義』 明治書院, 1998.
  7. 3.『大辞泉』小学館,

レポート : 2012年 10月 31日

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