端午の起源について、日本にはふたつのお話が伝わっています。高辛の伝説と、屈原の伝説です。
では、物語のはじまり。はじまりぃ。
昔支那に高辛 (かうしん) と云ふ子供がゐました。この高辛と云ふ子供は
大變に惡戯 (いたづら) 好 (ず) きの子供で、
毎日々々方々で惡戯ばかりして居りました。
この子供が 五月五日に舟に乗つて 向かふ島へ遊びに行かうとしました。
海の眞中で急に風が吹き出して來て、舟がひつくり返り、
高辛は海の中で溺れて死んで仕舞ひました。
ところが死んでから惡い鬼になつて、舟をひつくり返したり、魚がとれない様にしたり、惡いことばかりしたものですから、みんな
大變にこまりました。
ある人が、粽 (ちまき) を供物として海の中へ投げ入れ 高辛を弔へば、鬼になやまされることが無くなると云はれたので、
五色の糸に粽をつるして、海の中へ投げ込みました。
すると、鬼になつた高辛は海の中から出て、雲に乗つて空の方へ逃げて行つて仕舞ひました。
それから、五月のお節句には粽を拵らへてお祭りをする様になつたのです。
(参考文献 :内山憲尚『年中行事のお話』日本保育館, 1943.)
支那に屈原 (くつげん) といふ立派な人がありました。この屈原は楚 (そ) の
頃襄王 (けいじようわう) の時代の人でありまして、初めは重く用ひられて居りましたが、
頃襄王 (けいじようわう) はだんだん惡 (わる) い人を近づけ
屈原 (くつげん) を遠 (とほ) ざけたのでした。
そこで屈原 (くつげん) は王にいろいろと忠告を試みましたが、もとから賢 (かしこ) くない王は、良藥 (りようやく) は口ににがいといふ諺 (ことわざ) のやうに
屈原 (くつげん) がうるさくなつて來ましたので、つひにこれを放逐 (ほうちく) してしまひました。それだのに、屈原 (くつげん) は王を怨 (うら) まないで、
暑いにつけ、寒いにつけ、王の身をきづかひながら、揚子江 (ようすかう) の流域 (りういき) をあちら、こちらとさまよひ歩 (ある) きました。
屈原 (くつげん) はたいへん立派 (りっぱ) な詩人 (しじん) でありまして、その旅行の間に「離騒 (りそう) 」という立派な詩 (し) を作り、
それから楚辭 (そじ) といふ新 (あた) らしい形 (かたち) の詩 (し) が生 (うま) れて來ました。
ある時は、ふるい友達を訪ねて厄介 (やくかい) になつたり、ある時は
渡し舟の漁夫 (ぎょふ) と問答したり、洞庭湖 (どうていこ) といふ
美しい湖の上で、昔の神さまを祭つたりしましたが
遂に汨羅 (べきら) といふ淵 (ふち) に身をなげて、死んでしまひました。
土地の人は屈原 (くつげん) を氣 (き) の毒 (どく) に思つて、
その死んだ日の五月五日を端午節 (たんごせつ) としてお祭 (まつり) をするのです。
丁度五月頃から気候 (きこう) が惡 (わる) くなり、
いろいろの流行病 (りうかうびよう) もはやつて來ますので、この端午節 (たんごせつ) は
惡魔 (あくま) 除 (よ) けと結びついたもので、
この日は家々の門前や軒端 (のきば) に菖蒲 (しょうぶ) や蓬 (よもぎ) をさして魔除 (まよ) けをすると共に、昔屈原 (くつげん) が好きであった、
これらの香の高い草の葉をさすものと思 (おも) はれます。
(参考文献 :尾関岩二『支那の子供』興亜書局, 1941.)
屈原は実在の人物で、司馬遷 (しばせん、紀元前 145 - 86 年頃、前漢の歴史家) の史記
(しき : 中国の歴史書。全 130 巻) 卷八十四の「屈原賈生列傳 (くつげんかせいれつでん) 」に、屈原についての記録があります。楚の国の様子や屈原の人柄など、かなり詳しく記されています。
分かりやすい物語調のものをご紹介。
支那古代逸話より
彼は元々楚の王族として生まれた人で 幼より博聞强記 (はくぶんきょうき) 、長じては若年より國政に参議し、
一度 (ひとたび) 、出でゝは外國使臣 (がいこくししん) と應對 (おうたい) し、時の楚王、懐王の寵を一身に集めたのである。
併 (しか) し、滿 (み) つれば缺 (か) くる習といふ如く、
彼と同列の大夫 (たゆう) 達は彼を嫉視 (しっし : ねたみの気持ちでみること) して、
機會 (きかい) あらば、彼を陥し入れむとしてゐた。
偶々懐王は彼に命じて楚國の法令を起草せしめたのである。その草稿 (そうこう : 下書き) の未だ出來上らざる時、
彼を憎む大夫一同は、之を見む事を屈原に申し出た。彼等は私 (ひそか) に之を奪はんとしたのであつた。
併 (しか) し、この謀 (たくらみ) を知つた彼は之を許さなかつた。
此を機に爆發 (ばくはつ) した大夫達の不平は遂に懐王に次の如く彼を讒 (ざん : そしる) したのである。
「我が君は屈平 (原の名) をして、憲令とならしめ、法令の起草を命ぜられて居りまするが、彼は一の法令を出す每に、その功績を誇り、
楚に我が屈原なくば、か様な法令は到底望まれないと傲語 (ごうご : 人を見下した言い方や言葉) 致してをります」
賢明の懐王も遂 (つい) に之を信じ、屈原を左遷 (させん) したのである。
一旦、左遷せらるゝや 彼は野にあり、己が正直の天に通ぜずして讒諂 (ざんねい : そしりへつらう) の明德を蔽 (おお) へる事を悲しみ、憂々悶々して、彼の一篇離騒 (りそう : 長編詩) を造つたのである。
屈原の朝より斥 (しりぞ) けられた頃、秦 (しん) は齊 (せい) を
伐 (う) たむとしてゐた。然 (しか) るに
楚の懐王は齊の國と同盟を結ばんとしてゐる。秦の惠王は之を患 (うれ) へて楚に救援を求めたのである。
この時、秦より楚に使したのが彼の連衡 (れんこう) の辯者 (べんしゃ : 能弁家のこと)
張儀 (ちょうぎ) である。
彼は秦王の命を受けて先 (ま) づ 懐王に會見 (かいけん) し、か様に願つたのである。
「秦王は楚國を憎むこと甚 (はなはだ) し。今若し、大王が楚の大兵を擧 (あ) げて
秦と齊の中間に進出して兩國 (りょうごく) の爭 (あらそい) を絕たるゝならば、
秦はその領土六百里を楚に献ずるでありませう」
との條件 (じょうけん) に目の眩くらんだ懐王は、この兩國の間を絕ち、
その報酬として六百里の地を秦に乞 (こい) はしめた所、元々張儀の詐 (いつわ) りであるため、
秦は六百里を與 (あた) へようとしない。且 (か) つ
「楚王は定めし、張儀の言つた六里の地を六百里と聞き違ひ致したものであらう」
との返答である。
大いに怒つた懐王は國中の兵を出し、秦を伐たむとしたが遂に大敗し、漢中の地を奪はれて了 (おわ) つたのである。
又、之を聞いた魏 (ぎ) も兵を出し、楚に侵略し來つたのである。
腹背 (ふくはい) に敵を受けた楚は齊に救ひを求めたが聴き容れられない。懐王は涙を呑んで秦に漢中の地を
與 (あた) へて講和したのであつた。楚王は張儀を罰せんとしたが、彼は
獨特 (どくとく) の詭辯 (きべん) を以て、楚の
侫臣、靳尚 (きんしょう) 及び
懐王の寵姫 (ちょうき) 鄭袖 (ていしゅう) の兩人に取り入り、遂に釋放 (しゃくほう) の身となつたのである。
之を聞いた屈原は人を遣して懐王を諌 (いさ) めたが、旣 (すで) に張儀の逃れた後であつた。
時に秦の昭王は楚の王姫を己が妃に呼ばんとして、懐王に會見 (かいけん) を申込んだのである。
屈原は早くも秦王の心の中を悟り、楚王に
「秦の王は虎狼の心であります故、何卒 (なにとぞ) 御止 (や) め下さいますよう」
と願つたが、懐王の末子、子蘭 (しらん) の爲に妨げられ、遂に用ゐらるる所とならなかつた。
併 (しか) し、懐王は秦王と會すべく秦の國境、武關に入るや、秦の伏兵の爲に人質とせられ、その土地を
割かん事を迫られた。大いに怒つた懐王は趙 (ちょう) に走つたが、趙も之を入れず、懐王は異郷の空に憤死したのであつた。
斯 (か) くして 懐王の歿後 (しご) 、長子、頃襄 (けいじょう) 王が
卽位し、弟、子蘭が楚の令尹 (れいいん) (宰相) となつた。併 (しか) し、この子蘭は
卽に屈原の容れざる所である。彼は再び官を退き、この不平悶々の情を文に書き、詩に表して私 (ひそ) かに幼君、
頃襄王を諷諌 (ふうかん : 遠回しに忠告すること) せんとした。
然るに心良からぬ子蘭は、大夫をして、再び頃襄王に讒言 (ざんげん) せしめ、爲に頃襄王は彼を楚の一海濱に
流適したのである。
己んぬる哉
國人我を知るなし
又何ぞ故郷を懐はん
世を擧げて混濁
我獨り清し
衆人皆醉ひ
我獨り醒 (さ) む
と悲痛なる叫びを擧げたのは この時である。
併し、この一寒村に在つても 彼は楚に對 (たい) する忠節を忘れず、顔色憔悴 (せうすゐ) し、
頭髪は亂 (みだ) れて顔にかゝるも、常に悠々澤畔に行吟し、敢 (あえ) て懼 (おそ) るゝ所なかつたと云ふ 而 (しか) して遂に汚辱の世を厭 (いと) つて
汨羅 (べきら) の淵に身を投じたのであつた。
彼の命日五月五日には 今も汨羅 (べきら) の地方にありては 土地の人々、竹筒に米を入れ水中に投じて 彼を祭るといふ。
(参考文献 :『支那古代逸話』社会教育会 編. 社会教育会, 1936.)
report : 2012年 5月 20日