『食べる』という行為は、
『生きるために必要なエネルギーを摂取する』という行為に見えるかもしれないけど、その他にももっと違う何かがある。と、心から思う。
私は、変な食辟があって、はまったらとことんその食べ物を食べ続けるというクセがある。
ある年、父が畑で作っている「丸大根」にはまって、丸大根を大量に食べるようになった。
そのうち、あまり他の食材を取らなくなり、ほぼ丸大根だけを食べるようになった。
毎日。毎日。毎日。
そうしているうち、ひどく変な気分になったんだな。
畑に出向いて、丸大根を収穫するたび、自分は彼らの命で生きているって、すごく実感するようになったんだな。
だって毎日、丸大根しか食べてなかったんだから。
「彼らの命」で「私の命」が続いているんだと。
不思議だった。不思議な感覚だった。
そうか。人間は生きるために、必要なエネルギー摂取量を『カロリー』や『栄養』で表現するけど、実はそうじゃなくて、
もっと他の数値もあるかもしれない、って。
たとえば、口にしている食べ物の生き物の『生(せい)』を表す数値みたいな。
ひとつの生命から得られる『ひとつの魂』とかなんとか。そういう感じのもの。
私はときどき、とくに動物に限っては、まるまるな生命体の絶命を見ることがない。
スーパーに行くと、牛さんや、鳥さんは部位によって切り分けられているし、魚さんも結構切り刻んでられたりする。
生命を感じられにくいけど、よく考えるとやっぱり生命なのだ。と、思ったりする。
基本的に人間は、他の生き物の「生」をもらって自分の命をつないでいる。動物。植物。どちらからも。
人間が生きるのに必要なのは(あるいは『影響している』のは)、ひょっとしたら、その個々の『生』の数とかもあったりするのかもしれない。
そう。私が今生きているエネルギーは、摂取した生命体『個々』の魂の数に関わっている。と。
実際、私がその冬の3ヶ月を生きるのに必要な丸大根の数は、畑の端から端まで。
ひと畝(うね)だっただろうか。いや、もうちょっとかな。ひと畝半。
春先、私が収穫しなかった丸大根は、花を咲かせて世代交代をして行った。
厳密に言えば、その丸大根達は、畑の肥料になったんだけど。
(収穫されない野菜達は、耕耘機によって粉砕され、畑の土に戻される)
『食べる』ということ。
自分の命をつなぐということ。
毎日、そういう行為を繰り返しているということ。
ほんとうに不思議なことだと思う。