平安 - 鎌倉時代 の僧、圓智さんの勧進帳 (かんじんちょう) に、鎌倉時代の初期、建久十年 (1199 年) 四月、出雲寺の造営について、菅原長守に宛てた書状の記録があり、その中でこういう一節があります。

僧圓智勸進帳
請以諸施主助成遂出雲寺造営狀

梅夏端午之節、藥玉之使必來、檀越和尚之誠、花香之勤無絕、 (参考文献 :『鎌倉遺文 古文書編第二巻』竹内理三 編. 東京堂出版, 1972.)

また、キング オブ 薬玉古記録でご紹介した看聞日記にはこうあります。
キング オブ 薬玉古記録

看聞日記 (後崇光院 (ごすこういん、1372 - 1456 年) の日記 / 1416 - 1448 年 / 室町時代の皇族、伏見宮貞成親王の日記)
應永 卅一年 五月 四日

藥玉之使者入夜歸參
(たぶん、薬玉の使いの者。と読むんじゃぁないかと思いますが、 Mio さんはあえて、かっこよく「くすだまのししゃ」と呼ぶことにします)

薬玉は五月五日に、朝廷から臣下へ賜ったり、また貴族達の間で互いに贈答されたりしました。
「藥玉之使」、「薬玉之使者」とは、この薬玉をデリバリーする人のことです。つまり、薬玉配達人。 彼等の活躍無くして、薬玉が手元に届くことはありません。

どんな人が配達を担ったのか。どんなふうに配達されたのか。
「薬玉配達人」にロックオンです。

まずは、辞典類などで薬玉が盛んに贈答されたとされる平安時代です。当時の儀式書と法典を参考にすると、内竪を使いに出して、諸寺(注1)に薬玉を送る、という条を確認することが出来ます。
内竪とは、宮中で雑用係として働いていた人の事です。
「豎」とは「こども」の意味があり、「内豎」を和読みにすると「ちいさわらわ」「ちさわらわ」。実際に子供もいたようです。辞典を開いてみます。

国史大辞典 (明治時代の日本史の辞典 / 吉川弘文館)
未冠の童を以て殿上の駆使に充つ、卽ち節會の日 御挿鞋 (そうかい : 天皇や高僧が用いる沓 (くつ)) を儲け、行酒を爲し、 時尅 (じこく) を奏し、賭弓の時Dartを取り、或は白馬節會に式兵を召し、 十二月陵幣を奉る等の事を掌 (つかさど) (参考文献 :『国史大辞典』八代国治 等編. 吉川弘文館, 1927.)

配達記録

西宮記 (さいぐうき、せいきゅうき、さいきゅうき : 源高明 (みなもとのたかあきら : 914 - 983 年) 著。成立年未詳。平安時代の有職故実書)
五日早旦、書司供菖蒲二瓶、居机二脚、立孫廂南四間生 (「生ナシ」) 近代不見、
絲所獻薬玉二流、又差内豎送諸寺、
藏人取之、結付晝御座母屋南北柱、撤朱須臾 (茱萸) 嚢、改着彼所請料絲、 (参考文献 :『改訂増補 故実叢書 西宮記』故実叢書編集部 編. 明治図書出版, 1993.)
延喜式 (藤原時平、忠平編集 : 927成立、平安時代の律令法典。全 50 巻)
巻第十五 内蔵寮

五月五日菖蒲珮所、支子一斗七升、像一斗七升、黄蘗八斤、 紫草五十斤、茜五十斤、汁灰一斗七升、酢七升、藁十圍、薪八荷、折櫃廿合、 十五合納諸寺菖蒲珮料、五合雜用、 敷料調布二端、安藝木綿十二枚、商布一段、紙廿張、土器百枚、錢百五十文、油一升、生絹一丈、油絹一疋三丈、調布一丈、筵一枚、 已上寮物、飯六斗、糟三斗、雜魚一斗五升、陶由加二口、酒槽二隻、 已上寮物、四衛府駕輿丁十二人、 左右近衞各四人、左右兵衞各二人、雜駆使、

右、料物送絲所造備、但件菖蒲珮、供御幷人給料外十五條、 内豎使供諸寺
(参考文献 :『訳注日本史料 延喜式 中』虎尾俊哉 編. 集英社, 2007.)

Special

「内竪」とは書かれてありませんが、「使いの者」に、平安時代の女流作家、清少納言が何やら言及しています。

枕草子 (まくらのそうし : 清少 納言 著 / 1000 年頃の成立 / 平安時代の随筆)
すさまじきもの
產養 (うぶやしなひ) 、餞別 (うまのはなむけ) などの 使 (つかひ) に祿 (ろく) など與 (とら) せぬ。 些 (はかな) き藥玉 (くすだま) 、卯槌 (うづち) など 持 (も) て歩 (あり) く者 (もの) などにも 仍 (なお) (とら) すべし。 思 (おもひ) も掛 (かけ) ぬ事 (こと) に 得 (え) たるをば 甚 (いと) (きょう) ありと 思 (おもふ) べし。是 (これ) は然 (さる) べき 使 (つかひ) ぞと、雀 (こころ) (ときめき) して 來 (き) たるに、徒 (たが) なるは、まことに荒凉 (すさまじ) きぞかし。 (参考文献 :小林栄子『枕草紙 日訳新註』言海書房, 1935.)
  • 現代語訳 その1 :
    產養や餞別などを持つて行つた使に祝儀を呉 (く) れないのは曲 (キヨク) がない。 藥玉や卯槌などの一寸 (ちょっと) した贈物を持つて歩く使などにも、 なほ必ず祝儀をとらせるがよい。 思ひもよらぬ事に、祝儀を貰つたのをば、甚 (はなは) だ興味があると思ふであらう。 この使には屹度 (きっと) 祝儀を呉 (く) れるだらうと思つて、 何を呉 (く) れるかと 胸を躍らせて行つたのに、何も呉(く)れないのは、いかにも おもしろくない。 (参考文献 :『枕草紙新釈 校定』永井一孝 校訂. 三星社, 1920.)
  • 現代語訳 その2 :
    產養 (うぶやしな) ひとて、產所 (うぶところ) の三ヶ夜 (よ) 五ヶ夜 (よ) などに祝儀 (しゅうぎ) の贈物 (おくりもの) する時 (とき) 、又 (また) は送別 (さうべつ) に 臨 (のぞ) みて馬 (うま) の鼻向 (はなむけ) とて、 餞別 (せんべつ) の品 (しな) を 贈 (おく) り來 (く) る時 (とき) 、 其 (そ) の使者 (つかひもの) に 褒美 (かづけもの) の品 (しな) を與 (あた) ふるは 例 (れい) にて、使者 (つかひもの) も斯 (かゝ) る 時こそと豫期 (よき) し居 (ゐ) るに、何物 (なにもの) も 取 (と) らせぬはすさまじ。
    (もつと) も五月五日 (さつきいつか) の端午 (たんご) の 節句 (せく) に、藥玉 (くすだま) とて菖蒲 (せうぶ) の 飾 (かざ) り花 (ばな) など、 若 (もし) くは正月 (むつき) (かみ) の卯 (う) の日 (ひ) に卯槌 (うづち) とて、 年中 (ねんちう) の惡鬼 (あくき) を攘 (はら) ふなる 杖 (つゑ) の、五色 (しき) の絲 (いと) にて 巻 (ま) きたるなどを、贈 (おく) り來 (く) る 使 (つかひ) の者 (もの) にも、 必 (かなら) ず褒美 (ほうび) の祿 (ろく) を取 (と) らすべし。 卯槌 (うづち) 、藥玉 (くすだま) などの使 (つかひ) は、 祿 (ろく) あるべしとも思 (おも) ひ懸 (がけ) ぬことなれど、 思 (おも) ひ懸 (がけ) ぬ時 (とき) に 褒美 (ほうび) を得 (え) たるは、一層 (いつそう) (けう) ありて嬉 (うれ) しと思 (おも) ふなるべし。 さるを今日 (けふ) の使 (つかひ) は、必 (かなら) ず 祿 (ろく) を得 (う) べきぞと思 (おも) ひ 定 (さだ) めて、如何 (いか) なる物 (もの) をか 授 (さづ) け給 (たま) ふらんと、胸騒 (むなさわ) ぎせさせて來 (きた) りつるに、何物 (なにもの) も與 (あた) へずして 空 (むな) しく歸 (かへ) さんは、誠 (まこと) に 興醒 (けうさ) めて 不都合 (ふつごう) 千萬 (せんばん) なり。 (参考文献 :『枕草紙 新訳』中村徳五郎 校註. 文進堂, 1931.)
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「奏者 (そうしゃ) 」と聞いたら、「バイオリン」やら「マンドリン」なんぞを連想するかもしれません。 確かにバイオリン奏者などが楽器を演奏しながら薬玉を配達してくれたら、とっても愉快で楽しそうです。 が、 いえ。いえ。
薬玉を配達するこの「奏者」とは、将軍御所に色々な用件を伝達、取り次ぐ役を担った人のことです。別名「申次 (もうしつぎ) 」。役職は「申次衆」といいます。
奏者と申次衆、それぞれを辞典で確認してみます。

大辞林 (三省堂)
申次衆 :
室町幕府の職名の一。足利義教のとき設置。将軍御所へ参上した者の名・用件などを取り次ぐ役。奏者。
国史大辞典 (明治時代の日本史の辞典 / 吉川弘文館)
ソウシヤ 奏者
室町時代以後、申次の者を云ふ、古くは將軍家にては申次、諸家にては奏者と稱して區別 (くべつ) したりしが、 後ちには共に奏者と稱する事となれり (條々聞書、海人藻芥) 江戸時代には、幕府にては奏者番といふあり、略して奏者といへり、職掌相似たりと雖 (いえど) も、 頗 (すこぶ) る 輕重の相違あり、 (参考文献 :『国史大辞典』八代国治 等編. 吉川弘文館, 1927.)

配達記録

「申次」が薬玉を配達した記録は、ぼちぼちあります。
特に「殿中申次記」は、戦国時代の申次衆、伊勢貞遠 (いせさだとお) の著で、この中に薬玉の記録もあったりします。 古記録では、廣橋、勸修寺、伊勢など申次の名前が具体的に記されているものもあります。

また、配達先に室町殿、あるいは武家へなどとあることから、公家と武家の間でも、薬玉を贈答しあっていたということがわかります。

殿中申次記 (でんちゅうもうしつぎき : 伊勢貞遠 著 / 成立年未詳 / 足利義稙代の故実を記した書)
五月五日
藥玉。禁裏様ヨリ參。
藥玉。伏見殿ヨリ參。但四日ニも參也
(参考文献 :『群書類従 第二十二輯 武家部』塙保己一 編. 続群書類従完成会, 1932.)
看聞日記 (かんもんにっき : 伏見宮貞成 (ふしみのみや さだふさ (後崇光院) : 1372 - 1456 年、後花園天皇の実父) / 1416 - 1448 年 / 室町時代の皇族 後崇光院 の日記)
  • 應永 廿九年 (1422 年) 五月 四日、
    檜皮葺參、菖蒲茸如例、藥玉室町殿進之、前宰相持參、廣橋二付之、御方 (若公) 同進之、付女房、鳴瀧殿御喝食同進之、宰相入夜歸參、續命縷 廣橋申次入見參、御返事毎年不相替賜之条、目出祝着之由奉之、 御方御返事女房奉書之旨同前自仙洞被進、廣橋申次云々、八講朝座了等持寺二被歸、有談義、其間數剋待申、 及秉燭有御返事云々、
  • 永享 三年 (1431 年) 年 五月 四日、
    晴、續命縷禁裏室町殿進之如例、室町殿内々上﨟局へ進、勸修寺申次、 依斟酌如此、抑泉涌寺新命參來對面、是前住也、去晦日入院、 近年備中在國此間被召上再住、茶五十袋持參、 (参考文献 :『看聞日記 乾坤』宮内省図書寮, 1931.)
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晴右公記 (はれみぎこうき : 勧修寺晴右 (かじゅうじ はれすけ、1523 - 1577 年) 著 / 1565 - 1570 年 / 戦国時代末期の公卿 勧修寺晴右の日記。現存するのは、一部のみ)
永祿七年 (1564 年) 五月
天晴 武家へ為御使くす玉參候也、申次伊勢七郎衛門也、 (参考文献 :『勧修寺晴右文科大学史誌叢書 晴右記』坪井九馬三, 日下寛 訂. 富山房, 1899.)
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中世の薬玉配達人には、「申次」のほかに「伝奏 (てんそう、でんそう) 」もあります。伝奏とは、天皇、上皇に奏請を伝える役職です。たくさんの種類があり、中でも室町時代に出来た武家伝奏は公家と武家をつなぐ、重要な役だったようです。 多くは中、大納言が任ぜられました(1)

国史大辞典 (明治時代の日本史の辞典 / 吉川弘文館)
デンソウ 傳奏
親王、攝家、諸社寺 及び 武家等の奏請 (そうせい) を、天皇 上皇に傳奏することを掌 (つかさど) る、故に職名とす
(一) 上皇の傳奏を院傳奏と云ふ
(二) 天皇の傳奏には 寺社傳奏、神宮傳奏、賀茂傳奏、石清水傳奏、稲荷傳奏、南都傳奏、大徳寺傳奏、長講堂傳奏、學習院傳奏、服部傳奏、 踐祚傳奏、卽位傳奏、譲位傳奏、改元傳奏、八講傳奏、凶事傳奏、武家傳奏 等あり、
故實拾要に「傳奏と云ふは諸社諸寺院武家等何れにもあり、諸社は其社の事を奏し、諸寺は其寺院、武家は其武門の諸事を奏す也、 又 諸社寺院の傳奏は、堂上代々其家あり、諸家中勤之也」と見えたり (参考文献 :『国史大辞典』八代国治 等編. 吉川弘文館, 1927.)

配達記録

御所の女官達が書きついだ当番日記「御湯殿上日記」に伝奏が配達したという記録があります。「てんそう」とある記事と、名前だけの記事とがあります。

御湯殿上日記 (おゆどののうえのにっき : 1477 - 1820 年間 / 禁中御湯殿上の間で、天皇近侍の女房が交代で記した当番日記)
  • 文明十五年 (1481 年) 五月 四日
    御くすたま ふしみ殿よりまいるを。 宮の御方へ まいらせらるゝ。大納言とのへ御くすたま てんそう御つかゐにて まいらせらるゝ。 御しうちやくのよし御申。
  • 延德二年 (1490 年) 五月 四日
    さまの督とのゝ御くす玉 まいらるゝ。 御つかゐ てんそう。ふしみとのより御くすたま まいる。
  • 大永八年 (1529 年) 五月 五日
    ふけへ御くすたま まいる。御つかゐ くわんしゆ寺大納言 まいる。 (参考文献 :『続群書類従 補遺 三 お湯殿の上の日記』塙 保己一 編, 太田 藤四郎 補. 続群書類従完成会, 1932.)
そのほかの記事はこちらへ 薬玉を贈答する習慣はいつまであったか
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平安時代には内竪、中世には申次と伝奏の活躍を知ることができました。しかし、薬玉配達人は他にも色々あったのだろうと Mio さんは想像しています。
なぜなら、たとえば、内竪に関しては諸寺に送る時の事が書かれてあるだけなので、それ以外の場合がどうだったのかがナゾ。
また、伝奏は、公家と武家の間で活躍しましたが、公家と公家の間ではどうだったのか、こちらもナゾ。などと、思うからです。

これらのことは、引き続き調査します。 何か分かり次第、更新予定。

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注釈 / 参考文献

注釈

参考文献

  1. 『角川 古語大辞典』角川書店, 1982.

report : 2012年 6月 18日

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