平安時代、内裏清涼殿の弘廂 (ひろびさし) 注1の間の東入り口に、年中恒例の公事を書いた衝立障子 (ついたてしょうじ) が立っていました。年中行事障子 (ねんじゅうぎょうじのしょうじ) 注2といいます。その目録注3の五月の条に、

五日。節會事。 (参考文献 :『続群書類従 第10輯ノ上 官職部 律令部 公事部』 塙保己一 編. 続群書類従完成会, 1926.)

と、あります。
この「節會事 (せちえごと) 」とは、五日節会 (いつかのせちえ) のことで、朝廷の年中行事のひとつです。 古代、薬玉を朝廷から賜るというイベントはこの節会の中で行われました。

しかし、残念ながらいつしかこの節会は廃れてしまいます。
さて、そのあと、この薬玉のイベントはどうなってしまったのか。五日の節会を中心に、その前後の様子を探ります。

五日の節会の様子をざっくりと

とりあえず、五日の節会がどがなもん(鳥取弁 : どんなもの)だったか、ざっくりつかみたいと思います。
公事書や年中行事書を捲ろうと思いましたが、まぁだいたい似たような事が書いてあるので、変化球で、注釈書から情報を得てみます。 五日の節会にはたくさんのイベントがあったようです。

源氏物語 第二帖 帚木

「五月の節に急ぎまゐるあした」の註釈

雨夜談抄 (あまよだんしょう : 宗祇 (そうぎ、1421 - 1502 年) 著 / 1485 年 / 室町後期の源氏物語注釈書)
五月節には。天皇あやめのかづらをかけ。武德殿に行幸在。内弁外弁節會のごとし。 宮内省献菖蒲。内侍女蔵人續命縷を群臣に給ふ。 三献おはりて。六府騎射の事あり。 (参考文献 :『続群書類従 第 18 輯下』塙保己一 編. 続群書類従完成会, 1926.)
源氏物語抄 (げんじものがたりしょう : 正徹 (しょうてつ、1381 - 1459 年) 著 / 1440 年成立 / 室町時代の源氏物語注釈書)
五日のせちゑ
首云 五月節 聖武天皇 天平十九五五 天皇御南園觀騎射走馬 此日 詔曰 昔五日 節用菖蒲爲蘰 近來停之從今而後 非菖蒲勿宮中 云々 (参考文献 :『未刊國文古註釋体系 第十一册』吉澤 義則 編. 帝國敎育會出版部, 1936.)
源氏官職故実秘抄 (げんじかんしょくこじつひしょう : 壺井 義知 (1657 - 1735 年) 著 / 成立年未詳 / 江戸時代の源氏物語注釈書)
五月のせち
五月の節 本朝其起る所文明ならず 天平十九年五月五日の紀によれば 是日太上天皇の詔曰 昔五日の節には常にあやめを用いてかつらとせしよしみえたり 其時に昔と仰られしはいつ頃の事にや分明ならず 昔推古天皇十九年廿年昔に 五月五日に 藥獵 (くすりがり) の事ありし 是なん菖蒲の濫觴 (らんしょう : ものごとのはじまり。起源) と成けるや 其後皇極天皇元年五月五日に射獵のことあり 是又騎射のはじめなりける也 又續命縷 (クスダマ) のことは 任明天皇嘉祥二年五月五日より始めれるとかや むかしは參議以上に藥玉を給ける由 西宮記にみえたり (参考文献 :『國文註釋全書』本居豊頴, 木村正辭, 井上賴囶 校訂. 國學院大學出版部, 1910.)

まとめてみる

上記をアバウトにまとめてみました。

五日の節会のプログラム (雨天決行 (たぶん) )
注意 : 参加者は、必ず菖蒲鬘 (あやめのかずら) をつけること。身につけぬ者は、宮中に入るべからず。

  1. 天皇、武徳殿に行幸
  2. 菖蒲の献上
  3. 續命縷の下賜
  4. 騎射
  5. 走馬

薬玉を下賜するシーンをもっと詳しく。 あやめの蔵人

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こたえ :

残念ながら、五日の節会がいつからあったのかはさっぱりわかりません。
ただ、奈良時代には朝廷が行うセレモニーとして、確立されていたと想像します。
源氏物語抄が引用している五日の節会の註釈、「聖武天皇 天平十九五五 うんぬんかんぬん」は、 続日本紀からの引用で、実際にそんなようなことが書かれてあります。

続日本紀 (しょくにほんぎ : 菅野真道 (すがのまみち、741 - 814 年) 、 藤原継縄 (ふじわらのつぐただ、727 - 796 年) 等著 / 六国史の第二。平安初期 (697 - 791 年間) の歴史書。)
庚辰、 天皇御南苑玉フ騎射走馬、 是日、太上天皇詔曰、 昔 (ムカシ) 者 五日之節ニハ、 常 菖蒲 (アヤメ) (カツラ) 、 比來已 (ヤメ) 、 從今而後、 非菖蒲ヲバ、宮中 (参考文献 :『六国史 巻 3 続日本紀 巻上.下』佐伯有義 編. 朝日新聞社, 1929.)

聖武天皇 (しょうむてんのう : 701 - 756 年) は奈良時代、第 45 代天皇で、在位は 724 - 749 年、時代は奈良時代です。

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平安時代の右大臣、藤原師輔が遺した「九条殿記」には、天慶七年 (944 年) に行われた五日の節会の様子が事細かに記されています。
が、
冒頭にこんな一節があります。

つまり、延長五年 (927 年) 以降は、五日の節会は行われていなかったっつうことのようです。 (九条殿記、天慶七年の記事は、17 年ぶりに節会を行ったという記録のようです)

さらに、平安後期の官僚、中原師遠 (なかはらもろとお、1070 - 1130 年) が記したとされる「師遠年中行事」には、

などという記述があったりします。そして、鎌倉時代初期に成立されたとされる「年中行事秘抄 (著者未詳) 」にも、

とあります。
さらに、さらに、鎌倉末期から南北朝初期の天皇、後醍醐天皇 (ごだいごてんのう、1288 - 1339 年、在位は 1318 - 1339 年) が著した有職書「建武年中行事 (けんむねんじゅうぎょうじ、1334 年成立) にも、

そして、南北朝時代の公家、二条良基等による歌合の公事の書「年中行事歌合」 (1366 年成立) では、

となってしまいます。 どうも、平安時代後期には節会があったりなかったりして、その後は復活する様子も無く、さっぱり行われなくなっていたような感じです。

おもひのまゝの日記 (二条良基 (にじょうよしとも、1320 - 1388 年) 著 / 成立年未詳 / 南北朝時代の公家、二条良基による公事の記録)
五月五日は武徳殿のむかしの跡をたづねて。 節會走馬などあるべし。菖蒲のかざり くす玉など用意する人々ありしかど。さのみ久しくたえたる事を をこなはせ給はんもとて。ことしはやみぬ。左右近のあらてつがひなどは。大將むかひて いときら〳しく をこなふ。 (参考文献 :『群書類従 第二十八輯 雜部』塙保己一 編. 続群書類従完成会, 1932.)
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端午の節会の存続があやしくなってなってくると、そこで華々しく活躍していた薬玉が一体どうなってしまったのかが、気になります。
平安時代の儀式の書「西宮記」や、鎌倉時代の公事の書「年中行事抄」などに、ヒントらしい記述があります。

西宮記 (さいぐうき、せいきゅうき、さいきゅうき : 源高明 (みなもとのたかあきら : 914 - 983 年) 著。成立年未詳。平安時代の有職故実書)
五月「供菖蒲」據目次補記 (中略) 五日早旦、書司供菖蒲二瓶、居机二脚、立孫廂南四間生 (「生ナシ」) 近代不見
絲所獻藥玉二流、又差内豎送諸寺
藏人取之、結付晝御座母屋南北柱、撤朱須臾 (茱萸) 嚢、改着彼所請料絲

或本 (下) 二人
無節會之時、典藥供菖蒲机四脚、二脚供御、立明義門前廊下、人給料、立下侍西邊、 内藏寮官人撤之、見式也 (参考文献 :『改訂増補 故実叢書 西宮記』故実叢書編集部. 明治図書出版, 1993.)
年中行事抄 (ねんじゅうぎょうじしょう : 著者、成立年未詳 / 2 巻。または 4 巻とも。鎌倉時代の公事の行事を記した書)
五日。節会事。(中略) 同日。糸所供藥玉事。
無節會之時。於清涼殿供之。結付晝御帳柱。撤去年茱萸。
(参考文献 :『続群書類従 第10輯ノ上 公事部』続群書類従完成会 編. 続群書類従完成会, 1926.)

西宮記には、節会が無いとき、典藥寮 (くすりのつかさ、宮内省所属の令制官司) は菖蒲の机を四脚供え、なんちゃらかんちゃらとあり、節会が無いときの対応の仕方が記述されています。
また、年中行事抄では、節会の無い時は清涼殿において之を供えよ。とあります。 そして、それからのちの時代の公事書、年中行事書などにも薬玉に関する記述があることから、どうやら五日の節会というセレモニー (儀式、式典) がなくなっても、薬玉のイベントは行われた。っちゅうことが言えるのかもしれません。

他にも、五日の節会で行われた書司 (ふみのつかさ、後宮十二司のひとつ) が供える菖蒲のイベントや、内膳司 (うちのかしわでのつかさ、宮内省所属の宮司) が供える早瓜 (わさうり) のイベントも、節会が無くなっても薬玉のイベントと同様に、引き続き行われていたようです。

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Mio さんの妄想が信憑性を纏うように、裏付け捜査をやってみます。
「節会」「薬玉」のふたつの単語を手がかりに、公事書やら年中行事書やらを追っかけます。

平安時代

師遠年中行事 (もろとおねんじゅうぎょうじ : 中原師遠 著 (1070 - 1130 年) らしい / 平安時代の年中行事書)
五月
五日。節會事。節會久絕。就中承保聖代已當御忌月。但未被下停件節會詔。如何。
五日。圓宋寺御八講事。後三條院。延久五年五月七日崩。 講問各八人。以五巻日充國忌日。(朱) 廢務。
典藥寮供昌蒲事。
御節句事。
内藏寮酒肴事。
内膳司供早瓜事。差内竪還常住寺。件早瓜山城御園所供也。而御園桓武天皇所建給也。又常住寺彼御願也。仍之還歟
書司供菖蒲事。
絲所藥玉事。先是進請奏。
五日。内匠寮進瓜刀事。
五日。書司供昌蒲事。
(参考文献 :『続群書類従 第10輯ノ上 公事部』続群書類従完成会 編. 続群書類従完成会, 1926.)
師元年中行事 (もろもとねんじゅうぎょうじ : 中原師元 (1109 - 1175 年) 著 / 年中行事の解説書)
五月蕤賓
五日。節會事。近代不被行之。
五日節會事久絕。就中承保聖代已當御忌月。但未被下停止件節詔。如何。

書司供菖蒲事。
絲所 (イトシドコロ) 藥玉 (クスダマ) 事。 ィ先是進請奏結付御帳。
典藥寮供昌蒲事。立明義門幷殿上前。
(参考文献 :『続群書類従 第10輯ノ上 公事部』続群書類従完成会 編. 続群書類従完成会, 1926.)
簾中抄 (れんちゅうしょう : 著者未詳 (藤原 ?) 資隆 と言われている / 平安末期頃成立 / 平安時代末期の故実書。原本は国宝 · 重要文化財)
五月
五日 さうふまいらす くすたま 御節供 最勝講この月 (参考文献 :『史籍集覧 23』近藤瓶城 編. 近藤出版部, 1902.)

鎌倉時代

年中行事秘抄 (作者、成立年未詳。鎌倉初期 (1293 年以前) の成立と考えられている / 朝廷の年中行事儀式について記した公事の書)
五日事。
糸所供藥玉事。
典藥寮供菖蒲事。
  立明義門幷殿上前
内膳司供早瓜事。   差内竪常住寺。 件早瓜山城國御園所供也。而件御園。桓武天皇所建給也。 又常住寺彼御願也。仍遣之歟。
内匠寮進瓜刀事。
(参考文献 :『続群書類従 第六輯 律令部 公事部』塙保己一 編. 続群書類従完成会, 1932.)
年中行事抄 (ねんじゅうぎょうじしょう : 著者、成立年未詳 / 2 巻。または 4 巻とも。鎌倉時代の公事の行事を記した書)
この公事書は、朝廷の年中行事の儀式について、先例の故実を引用し、意義、起源などを記しています。節会が行われなかった史実の記載もあり、注目です。

五日。節會事。
官式云。五月五日。天皇觀騎射幷走馬。弁及史等撿挍諸事。所司設御座於武徳殿。是日内外百官皆着昌蒲鬘。諸司各供其職。
内裏式。於武徳殿觀馬射。諸衞服中儀。供昌蒲続命縷等。
西宮記云。昌蒲鬘如日景鬘。
天平十九年五月。天皇御南苑。觀騎射走馬。詔曰。昔五日節。常用昌蒲縵。比來已停此事。從今而後。非昌蒲鬘者。勿入宮中。
天平賓字二年二月。詔云。去勝賓八歳五月。先帝登遐。一准重陽。永停此節。謂先帝聖武天皇也。
天長元年三月詔。五月四日。皇太后昇遐之日也。五日之節宜從停止。同二年九月九日。臨射宮觀馬射。依憚御忌月也。(中略) 同日。糸所供藥玉事。
無節會之時。於清涼殿供之。結付晝御帳柱。撤去年茱萸。
近衞式云。五月五日 藥玉料。菖蒲。艾。惣盛一輿。 雜花十棒。瓫盛居臺。
三日平旦。申内侍司。諸衞准此。
内裏式云。續命縷。此間謂薬玉
行成卿抄云。結付晝御座間母屋南北柱。
風俗通云。五月五日。以五色絲繋臂。攘惡氣。令人不病。俗謂五絲爲百索。 一名長命縷。一名續命縷。一名 辟兵繒 (縷イ)。帶之辟兵刀。 (参考文献 :『続群書類従 第10輯ノ上 公事部』続群書類従完成会 編. 続群書類従完成会, 1926.)

師光年中行事 (もろみつねんじゅうぎょうじ : 中原 師光 (中原師元 五世の孫) 著 / 年中行事御障子文系統の諸行事を中原師光が解説した書)
五月 月令云。仲夏。日在東井。斗建午之辰也。律中甤賓。
五日。書司供昌蒲事。先是進請奏。結付御帳。
糸所藥玉事。
典藥寮供昌蒲御輿事。立明義門幷殿上前。
(参考文献 :『続群書類従 第10輯ノ上 公事部』続群書類従完成会 編. 続群書類従完成会, 1926.)
元亨四年歳次甲子年中行事 (げんこうよねんさいじかっしねんじゅうぎょうじ : 藤原 貞幹 編 / 1789 年 / 元亨四年 (1324 年) 具注暦頭書の年中行事を抄出してまとめた書)
五日庚寅。
藥玉。御節供。内藏寮酒肴。内膳司供早瓜。左近騎射。圓宗寺御八講始。四日。 同不斷御念佛始。三日。
(参考文献 :『続群書類従 第10輯ノ上 公事部』続群書類従完成会 編. 続群書類従完成会, 1926.)

室町時代

拾芥抄 (しゅうがいしょう : 洞院公賢 (とういんきんかた、1291 - 1360 年) 撰、 玄孫の洞院実熙 (とういんさねひろ、1409 - ? 年) 増補 / 鎌倉中期頃に成立、その後南北朝時代に増補と考えられています / 一種の百科事典)
五月
四日 主殿寮 (トノモノツカサ) (フク) 内裏殿舎菖蒲 (昌蒲) (右近荒手番)
書司獻菖蒲 (昌蒲) 藥玉 内膳司供早瓜 山城國御薗 (ミソノ) 「二」所供也。
五日 供菖蒲 (昌蒲) 早瓜 · 藥玉  御節供  内藏寮酒肴
圓宗寺御 (ミ) 八講始四日 左近「府」騎射 (参考文献 :『略要抄 巻中』洞院公賢 撰, 洞院実煕 補. 吉川弘文館, 1906.)
太平記 (たいへいき : 著者未詳 数名による編纂だと考えられています。小島法師 (こじまほうし、? - 1374 年) もその一人かも / 1370 年代に成立したと考えられています / 南北朝時代の軍記物語)
巻第二十四
朝儀 (てうぎ) 年中行事 (ねんぢうぎやうじ) の事

暦應 (りやくおう) 改元の頃より兵革且 (しばら) く靜まり 天下無爲 (ぶゐ) に屬すと雖も、京中の貴賎は尚窮困 (きうこん) の 愁 (うれ) へに嬰 (かゝ) れり。 其の故は國衙荘園 (こくがしやうゑん) も本所の知行 (ちぎやう) ならず 正税 (せいぜい) 官物も運送の煩 (わづら) ひあつて、 公家 (くげ) は日を逐つて狼戻 (らうれい) せしかば、 朝儀悉く廢絕して政道さながら塗炭 (とたん) に墮ちにけり。 それ天子は必ず萬機 (ばんき) の政を行 (おこな) ひ四海を治め給ふ者なり。 其の年中行事 (ねんぢうぎやうじ) と申すは、(中略) 五月には三日六衞府、菖蒲 (あやめ) 竝に花を獻 (たてまつ) る。 四日は走馬 (はしりむま) の結番 (つがひ) 、竝に毛色を奏す。 五日には端午 (たんご) の祭、藥玉 (くすだま) の御節供 (おんせく) 、競馬 (くらべむま) 、日吉祭、最勝講 (さいしようかう) 行はる。 (参考文献 :『日本文学大系 校註 第 18 巻 太平記下巻 吉野拾遺 神皇正統記』佐伯 常麿 校註. 国民図書, 1925.)

安土桃山時代

年中恒例記 (作者未詳 / 1544 年頃の成立らしい / 室町時代の故実礼法書)
五日
同し從今日子帷子也女中衆ハ袷也
御祝御湯參御湯に先夜志なひ候蓬菖蒲入也
伊勢守 赤松有馬 眞木島 粽を進上之
從禁裏様御薬玉御拜領之御ひろ蓋に坐る仍御頂戴之後引合にてつヽみて水引にてゆはれ候て御返上之中﨟役之
伊勢守御風呂へ御成有之
諸家透素襖着用之七月晦日迄三ヶ月用之本式ハ六月三十日はかり也すきすあふと申ハ越後布也
(参考文献 :『史籍集覧 第 17 冊』近藤瓶城 編. 近藤出版部, 1902.)

江戸時代

後水尾院当時年中行事 (ごみずのおいんとうじねんじゅうぎょうじ : 後水尾院天皇 (1596 - 1680 年) 著 / 成立年未詳)
今日は御所にも藥玉 (くすだま) をかけてまゐらる。 一兩日已前御所より給はるなり。絲所の藥玉を御帳の左右の柱に結び付くなど、かなの年中行事にはあれど、此頃は沙汰もなくなりぬ。 (参考文献 :『列聖全集 御撰集 6』列聖全集編纂会 編. 列聖全集編纂会, 1917.)
日次記事 (ひなみきじ : 黒川道祐 (くろかわどうゆう、? - 1691 年) 著 / 成立年未詳、 1676 年 林鵞峰 (はやしがほう) の序説があります / 江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書)
五月 初朔日
篠葉幷藺殻 (イコウ)    自今日街市賣 眞薦 (マコモ) 葉幷藺殻端午粽之所用也 又賣削掛冑鎗長刀幷長命縷 (クスダマ) 是皆端午日兒女之玩具也 (参考文献 :『新修 京都叢書 第四巻』新修京都叢書刊行会. 臨川書店, 1968.)
年中故事要言 (ねんじゅうこじようげん : 蔀 遊燕 編 / 1697 年)
藥玉
藥玉 (クスダマ) ハ 五色ノ絲 (イト) ニテ 菖蒲 艾 (ヨモギ) ナド玉ニ貫 (ヌキ) タル物ナリ コレヲ以テ 臂 (ヒヂ) ニ懸 (カク) ル事ナリ (中略) 民間 (ミンカン) ニモ五月五日 女童 (ヲンナワラハ) ノ 翫物 (モテアソヒモノ) ニ 色々 (イロ〵) ノ作リ花 (ハナ) ヲ 糸ニツケ 紙 (カミ) ニ張 (ハリ) ナドシテ用ルハ コノ藥玉ヲ 禁中 (キンチウ) ニ 用サセタマフヲ 下 (シモ) ニ 習フテスル事ナリト謂 (イフ)
(参考文献 :蔀 遊燕『年中故事要言』1697. 早稲田大学図書館 古典籍総合データベース)
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五日の節会が執り行われなくなった後もしばらくは、糸所が薬玉を献上していた事が年中行事書の記録からわかります。 しかし時代が下ると、この薬玉製造所「糸所」がなくなります。 その後、どこが薬玉を作っていたのかは、これらの年中行事書からは何も分かりませんでした。

中世から近世、薬玉という文字の足跡だけが書物に残ります。
江戸時代、朝野年中行事の解説をしている日次記事が、長命縷の説明に女児の玩具としています。 後世、薬玉の活躍の場は、宮中から民間へと大きく移って行った。ということが、言えるのかもしれません。

ただ、江戸時代になっても、後水尾院当時年中行事に「薬玉は御所より給わる」とあることから、薬玉を献上したり、御帳の柱に懸ける習慣はしっかり。かは分かりませんが、続いていた。んだろうなと、 Mio さんは想像します。

桜町院御集 (さくらまちいんぎょしゅう : 桜町天皇 (1720 - 1750 年) 著 / 成立年未詳 / 江戸中期の天皇 桜町天皇による歌集)
五月五日 寛保二年五月五日

をりにあふ よそひもすずし 殿の裏の 母屋の帳に かくる續命縷

(参考文献 :『列聖全集 御製集 10』列聖全集編纂会 編. 列聖全集編纂会, 1917.)
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注釈

report : 2012年 11月 5日

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