いったい、長命縷の身に何があったんだ ? と、問いたくなるくらい、長命縷と薬玉のミカケは、あまりにもかけ離れています。が、
「生物」も「情報」も、時間を経ると進化 (変化) するっちゅうセオリーを Mio さんは普通に信じていたりしてます。
約二千年前、中国で生まれた長命縷というミーム (模倣子) が、日本に渡り装飾物になり、さらに中世「代替物で表現された形」を手に入れ、現在、折り紙界で猛威を振るうようになるまで、はたしてどのようなモデルチェンジがあったのか。
そのスガタカタチを追っかけてみることにします。
1. 長命縷が海を渡ってやって来た頃
長命縷は糸、または組紐です。
その長命縷が日本に渡って来た頃、どんなスガタカタチをしていたのか。
答え :
中国で生態していたときと同じ、 糸だった。
または、組紐だった。
そう思う根拠 奈良時代に薬玉はあったのか つまり、長命縷は中国で呪物として活躍していたときと同じように、日本にも呪物として同じ形のまま伝わった。っちゅうように推測します。そしてしばらくは、その糸、または組紐はそのままの形を維持しながら活躍していたんだろうと思います。
2.「薬玉」になった「長命縷」
その後、 日本に伝わった長命縷に重大な事件が起こります。五色の糸の突然変異です。
その形は、菖蒲、艾、花橘などとの合体型で、糸だけで構成されるものではなくなりました。 これを「薬玉」と呼ぶようになります。
「玉に貫く」という形
奈良時代の歌集、万葉集に表現される「菖蒲草、艾、花橘 を玉に貫く」というものが、薬玉と解釈されるときもあるようです。
しかし、これがなかなかのナゾ。「菖蒲草、艾、花橘を玉に貫」いて出来る、その形がさっぱり掴めません。 よく分からないので、ずいぶん転がり回ったのですが、いくら転がり回っても背中が痛いだけなので、何度も振り返りながら、スルーすることにいたします。 (何か発見次第、report いたします)
身に佩びるものから、柱に掛けるものへ
「長命縷」から「薬玉」への変化は、用いられ方の変化も暗示しています。それは、「身に佩びるもの」から「柱に懸けるもの」への変化です。 長命縷と薬玉の決定的な違いと言えます。
突然変異の要因
しかし、なぜ長命縷に、そのような突然変異が必要だったのか。
これについては、江馬務氏の意見に賛成します(1)。 つまり、これは長命縷と同じ、中国古代からの端午の「艾を門戸に掛けて邪気を払う」という風習と、ミックスさせたスタイルなんじゃぁないか。と。
中国では艾で人形を作ったり、虎の形を作ったりして、門戸に掛け、邪気を払うおまじないとしたようです。 古代の日本人は、これを長命縷に取り入れ、御帳の柱などに掛けたんじゃなかろうかと思う訳です。
あるいは、その風習を長命縷とは別としていたかもしれないけれども、艾を門戸や柱に掛けるとき、その艾を束ねる紐に五色の糸を使った。と、いうことだったのかもしれません。どちらにしても、艾を門戸に掛けるという風習は、関係していると考えています。
- 荆楚歳時記 (けいそさいじき : 宗懍 (そうりん、だいたい 500 - 563 頃) の撰、6世紀半ば頃成立 / 六朝時代の荆楚地方の年中行事や故事風俗の記録書)
- 五月五曰 四民並蹋百草 又有斗百草之戲 采艾以為人 懸門戶上 以禳毒氣
按 宗測 字文度 嘗以五月五曰雞未鳴時采艾 見似人處 攬而取之 用灸有驗 師曠占 曰 歲多病則 艾先生
- 初学記 (しょがくき : 徐堅 (659 - 729 年) ら の撰 / 728 年 / 中国 唐代の類書。30 巻)
- 采艾懸於戶上 (玉燭寶典 云 以禳毒氣、荊楚歲時記 曰 宗則字文度 常以五月五日未雞鳴時采艾 見似人處攬而取之 用灸有驗 是日競采雜藥、夏小正、此月蓄藥、以蠲除毒氣)
- 俳諧歳時記栞草 (はいかいさいじきしおりぐさ : 滝沢馬琴 (きょくてい ばきん、1767 - 1848 年) 編、藍亭青藍 補 / 1851 年 / 誹諧の季語を解説した書)
- 艾虎 (がいこ) 、艾人 (がいじん)
浦人 (はじん) (荊楚歳時記) 艾天師 (てんし) を畫 (ゑがく) 虎ハ、艾 (よもぎ) を以て虎 (とら) の形 (かたち) をつくり、 或ハ絲 (いと) を剪 (きり) て小虎とす、以て艾の葉に帖 (つけ) て、肉人爭て是を相戴 (いたゞ) く、 ◦ (同上) 五月五日、人みな百草を蹋 (ふみ) て 艾 (よもぎ) を採 (と) り、人を作り、戸上に懸 (かけ) て 以て毒氣を禳ふ、 ◦ 浦人 (金門記) 午日 菖蒲を刻 (きざみ) て、人或は葫盧 (ころ) 諸物をつくり、 簪 (かんざし) に戴 (いたゞ) く、以て邪 (じや) を辟く ◦ 畫天師 (嵗時雑記) 端午に都人、天師を畫て以て賣る 又 泥塑 (つちつくりの) 天師を作る、艾を以て鬚 (ひげ) とし蒜 (にんにく) を以て 拳 (こぶし) とし、門上に置て邪を辟く、 (参考文献 : 滝沢馬琴『俳諧歳時記栞草』藍亭青藍 補. 井洌堂, 1893.)
- 亜熱帯の冬 (大森久弥 著 / 1941 年 / 戦後に書かれた広東省の風俗習慣の本)
- 支那では端午祭は陰暦五月五日である。此の日は日本のやうに、勇ましく朗らかな祭ではない。五月五日は一般に 悪月悪日と信じられてゐる。何故五月五日が惡日だかよくわからないが、此の日家々では菖蒲と艾子 (よもぎ) を 門に挿し、五雷天師符といつて、南方道教の本山、江西省龍虎山の仙人張天師の像や、鍾馗(注1) (しょうき) の像を門口や 室内にはる。これは魔除なのだと言ふ。 (中略) 女は葫盧 (ころ) といつて、小さい虎を造り、桑の實 (み) 、蒜玉、瓢箪、桃、蜘蛛などを、 綾絹で刺繍したものを頸にかける。これも魔避けである。 (参考文献 : 大森久弥『亜熱帯の冬』大都書房, 1941.)
共生
長命縷と薬玉は、しばらく共生していたと考えられています。有り体に言えば、はじめ、両者は使い分けられていたということです(2)。詳しくはこちらで、熱く語っております。 薬玉と長命縷は同じモノか
3. 豪華な花々、そして草虫
花咲く平安時代
時代はくだって、平安時代。
この頃には、菖蒲や艾のほかに時節の花が加わり、薬玉は、美しい装飾物へと進化していたようです。
平安時代の法典「延喜式」にある薬玉の材料には、 菖蒲艾 惣盛二一輿一、雜花十捧、と、あります。
また、多くのバリエーションがあったことが、色々な古典籍から伺えます。 薬玉の作り方 薬玉の飾り方
さらに、平安時代の書状集、「雲州往来」にあるように「五色の糸で草虫を模する」など、糸で細工されたvariations型が出現します。
- 雲州往来 (うんしゅうおうらい : 藤原明衡 (ふじわらのあきひら、989〜1066 年) 著 / 成立年未詳 / 書状集)
- 二十三 往狀
今朝自二或所一給二 薬玉一流一作以二百草 之花一貫以二五色之絲一又摸一 草虫形一栖二其花房一芳艶之美有レ 興有レ感
読下し文 :
今朝 (コムテウ) 或 (ア) ル所 (トコロ) 自 (ヨ) リ 薬玉 (クスダマ) 一流 (イチリウ) ヲ 給 (タマ) ハル、作 (ツク) ルニ 百草 (ヒヤクサウ) 之 花 (ハナ) ヲ以 (モ) テシ、 貫 (ツラヌ) クニ 五色 (ゴシキ) 之絲 (イト) ヲ 以 (モ) テス、 又 (マタ) 草虫 (クサムシ) ノ形 (カタチ) ヲ摸 (ホ) シテ、其 (ソ) ノ花房 (ハナフサ) ニ 栖 (ス) マシム、
芳艶 (ハウエム) 之美 (ヒ) 、 興 (キヨウ) 有 (ア) リ、 感 (カム) 有 (ア) リ、
(参考文献 : 『雲州往来 亨禄本 本文』三保忠夫, 三保サト子 篇. 和泉書院, 1997.)
4. 香、糸花、造り花
二度目の大きな突然変異
薬玉の作り方 で、紹介した「(掛香) 薬玉の作り方」は、調合するお香の分量が書かれてあります。 この書、後宮名目 (こうきゅうみょうもく) は、京極為兼女の著作で、時代は鎌倉末期から室町時代です。
この頃の記録には、薬玉は生花から造花へ、そしてその香りを補うようにお香を伴ったという形が残されています。
あるいは、草花をのぞき、ただ、そのお香の玉に五色の糸を付けて、薬玉とした場合もあったようです。 「掛香」という薬玉 これを、二回目の大きな突然変異だと思っています。
薬玉のお香については、別室にてツボにはまっています。 薬玉の薬の玉 薬玉と匂袋
造花への変異の理由
なぜ、生花は造花へと進化したのか。を妄想してみます。
おそらくそれは、切り花の寿命に関わるのだと思っています。つまり「花の命は短い」。
薬玉は五月の端午の節句から、九月の重陽の節句まで御帳に掛けられます。もし造花なら、枯れること無くずっと美しさを保つことが出来ます。 薬玉を贈答する時にも、花がしおれることが無くなります。 おそらく、そういった理由があったんじゃないだらぁか。と想像しています。
- 女房私記 (にょうぼうしき : 著者、成立年未詳 / 室町時代の女房の日記。だと思います)
- 五月 端午のくす玉扇を別當より 女藏人まてに 被レ下 扇は中廣なり 片ほねに付て 源氏繪を書也 裏は銀の砂子也 是をうすやうと云
又云 宮々は藥玉を五色の絲にてふくろつくりて 花なとをして 左の御かたに付らるゝ也 (参考文献 :『古今要覧稿 第 1 巻 神祇部 姓氏部 時令部』屋代弘賢 編. 国書刊行会 校. 国書刊行会, 1907.)
- 日本住宅室内装飾法 (杉本文太郎 著 / 1910 年 / 明治時代の実用本)
- 今 古代の藥玉なりと申す圖を見まするに、紅白の杜鵑花 (とけんか、サツキ) (注2)、楝 (オウチ、センダン) 、 艾、花橘、菖蒲を一束に集め、その中に三枚の柏の葉を挿入れ、この三枚の柏葉の中に藥玉三箇を取りつけにして、其の藥玉の上を糸にてかざり、 以上の總 (ふさ) を五色の絲もて結び、上を打懸 (うちかけ) の輪形となし、 末は下に其絲の尾 長く垂れるのであります。 (参考文献 : 杉本文太郎『日本住宅室内装飾法』建築書院, 1910.)
大正から昭和にかけて活躍された日本風俗史学者 江馬務氏の著書、「日本歳時全史」には東山時代に案出されたという薬玉の一例が掲載されています。 その特徴をまとめるとこんな感じだったようです。主に、公家や茶人の好みだったとか。
- 形について : 扁平。上に六色の結び糸。
- 絲について : 六色。平糸で絹は用いず。
- 花について : 造花。四季の花。梅 (白)、櫻 (薄色)、牡丹 (赤薄色)、菊 (白、黄、赤)、紅葉 · 楓 (三色)、山吹 (二色)、 杜鵑 (サツキ) (白、赤、黄)など。
- 草ついて : 四季の花。球形。下に付ける。五月には、菖蒲、艾。三月には、桃、柳。
- 藥の玉について : 金糸の七宝網ぎせ。六色糸は、練糸 (ねりいと) 。
- 裏面について : 亀甲形の板に、表は赤、裏には萌黄色の絹が貼られている。 (参考文献 : 江馬務『日本歳時全史』臼井書房, 1949.)
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さらに少しずつ進化を遂げながら近世へ
- 恒例年中行事 (水原保明 (みずはら やすあき) 著/ 成立年未詳 (彼の著作に 1786 年、1789 年といったものがあるので、だいたいそんなような時代だと思われます)、江戸中期の年中行事書)
- 五月 五日 藥玉
是は糸にて赤白の杜鵑花、幷 艾 菖蒲を作り、五色の糸をかけたるもの也、 又 糸にてあみたる橘の實あり、内に藥を入らるゝと云、 延喜式、凡五月五日藥玉料、菖蒲 艾 雜花十棒 とあれば、むかしは菖蒲 艾 橘などの藥ものを時節の花にて飾、 五色の糸にて調たるものゆへ、藥玉といふ、 後世 藥物 雜花をも糸にて作る故、藥を入らるゝにや、當時御所江上るは 藥を入れられず、
西宮記に、五月五日、糸所、獻二藥玉二琉一、 藏人取レ之、結二付晝御座母屋南北柱一、又五日節會、 賜二續命縷一とあれば、むかしは糸所より調進して、 御所にも掛られ、人にも賜りたると見ゆ、 今は御出入りの職人上るなり、 (参考文献 :『古事類苑 歳時部 7』神宮司庁古事類苑出版事務所 編. 神宮司庁, 1914.)
- 貞丈雑記 (ていじょうざっき : 伊勢貞丈 (いせさだたけ、1718 - 1784 年) 著 / 1763 - 1784 年成立、1843 刊行 / 江戸時代の有職故実書)
- 藥玉の事
五月五日くす玉を禁裏より將軍家へ參らせられし由 年中恒例記等にみえたり くす玉は藥 (クス) 玉と書也 殿中申次記には葛 (クズ) 玉とあり 是はあやまり也
くす玉は香ふ藥を玉にして糸にてかざり つゝじの作花 よもぎ しやうぶをも結付て 五色の糸を長くたれさげたる物也 是を御簾 (ミス) にかけらるゝ也 后宮名目抄 (ゴクウミヤウモクシヤウ) に云 藥玉の法 麝香 (ジヤカウ) 一兩 沈香 (ジンカウ) 一兩 丁字 (チヤウジ) 五十粒 (ツ) 甘松 (カンシヤウ) 一兩 龍腦 (リウナウ) 半兩 薬玉一聯 (カケ) 十二 閏月のある年は十三也 一粒の大サ 是程迄さぶらふ也 袋は錦 (ニシキ) を用 式は紅 (クレナヰ) 練紐 (ネリヒモ) は攝家 (セッケ) は白 淸花羽林家 (セイグワワリンケ) は紫 其以下は縹 (ハナダ) 色を用ひ侍る也云々
枕草子云 わかき人々は さうぶのさしぐし ものいみつけなどして さまざまの からぎぬ かざみ ながきね をかしき をりえたども むらごのくみして むすびつけなどしたる めづらしういふべき事ならねと いとをかし ◦ 折りえだとは 作り花を云ふ也 (参考文献 :『改訂増補 故実叢書 1 巻 貞丈雑記』故実叢書編集部 編. 明治図書出版, 1993.)
- 安斎随筆 (伊勢貞丈 (1717 - 1784 年) 著 / 成立年未詳 / 江戸中期の随筆)
- ◦ 藥玉 : 雲州消息に曰く 今朝自二或所一給二 薬玉一流一候以二 百草之花一貫以二五色之縷一摸一 草蟲形一栖二其花房一芳艶之美有レ 興有レ感古人伝此日懸二續命縷一 則益一人命一云云蓋此物謂歟
◦ 今京都にある藥玉右の體なり 今あるは紅白のツゝジの花 (糸花なり) 艾草菖蒲を結びつけて 花枝の中央に玉あり香物を 合せたるカケ香なり 草蟲の形はなし 五色の糸六尺ばかり垂れ下る 御簾に掛くるなり 上に釘にかくる輪あり
(参考文献 :『改訂増補 故実叢書 8 巻 安齋随筆』故実叢書編集部 編. 明治図書出版, 1993.)
- 古今要覧稿 (こきんようらんこう : 屋代弘賢 (やしろひろかた、1758 - 1841 年) 著 / 1821 - 1842 年成立 / 江戸後期の類書。560 巻)
- くす玉は そのはしめ 漢土よりおこりて 皇朝にも世事となれり
さて その造なせるさまは ふるくは 五綵の糸にて 菖蒲 艾なとを 貫たるもの也 それを後には なてしこ あちさゐ その外 色々の 時の花ともして かされるよし 新古今集の歌なとにて志か おほえたり これを後々は 絲花にてつくれり すなはち 今の世にも 見所あるさまに 造なしたるものあり (参考文献 :『古今要覧稿 第1巻 神祇部 姓氏部 時令部』屋代弘賢 編. 国書刊行会 校. 国書刊行会, 1907 年)
- 嬉遊笑覧 (きゆうしょうらん : 喜多村節信 (きたむら ときのぶ、1783 - 1856 年) 著 / 1830 年成立 / 江戸後期の随筆)
- 藥玉
「雲州消息」(一名「明衡往来」) 云 今朝自或所給藥玉一流 作以百草之花貫以五色之縷模草虫形栖其花房 云々 みゆれば 古くより 虚飾多かり (参考文献 : 喜多村信節『嬉遊笑覧 上』日本随筆大成編輯部 編. 成光館出版部, 1927.)
- 日本住宅室内装飾法 (杉本文太郎 著 / 1910 年 / 明治時代の実用本)
- 又 普通の製には、紙若しくは切地にて 三枚の柏の葉を造り、 其の正中に三箇の玉をつけ、玉には藥を入れ、且つ其の上を絲にてかざりしを、紅白の紙 或は切にて 造られし 花橘、杜鵑花を丸く束ねたる、其の中央に取りつけます。而して更に五彩の長き絲を以て、 このたびは眞の艾と菖蒲とを丸く束ねし彼の造花の下に、段〃に下るやう、總てを堅く結び、上部にて 一結輪に結びて、末は菖蒲の下十分に垂れる如くいたすのであります。 (参考文献 : 杉本文太郎『日本住宅室内装飾法』建築書院, 1910.)
- 国史大辞典 (こくしだいじてん : 八代国治 等編 / 日本で始めて本格的な国史を扱った、明治時代の辞典)
- クスダマ 藥玉(中略) 當時の製作は 五色の絲にて、菖蒲 艾などを貫きたるものなりしが、後には、撫子、あぢさゐ、其他種々の草花を以て 飾れる由、新古今集の歌などに見えたり、 然るに後世に至りては、専ら華美を競ふに至り、實物を捨て、一切絲花にて作るに至れり、 (参考文献 :『国史大辞典』八代国治 編. 吉川弘文館, 1926.)
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5. 翫具への転身
薬玉が盛んに贈答される時代に陰りが出てくると、薬玉たちは貴族から民間へと舞台の比重を変え、拡大 · 浸透をはかります。 幕府にもてはやされた鎧、甲冑、(鯉) のぼりなどの裏で、美しさを武器に薬玉ミームが展開した、生き残り作戦だったのかもしれません。
薬玉はさらに進化を遂げつつ、民間の女性、子供に愛されるようになる一方で、同時に多くの派生型を生みます。 残念ながら、それらは一般に薬玉とは呼ばれないことが多いかもしれません。しかし、まぎれもなく、薬玉のミームを受け継いだ物たちです。
- 雍州府志 (ようしゅうふし : 黒川道祐 (くろかわゆうどう、? - 1691 年) 著 / 1684 年成立 / 江戸前期の京都の地誌)
- 藥 (クズ) 玉幷燈籠
又木長刀 木甲冑 山伏之頭巾 袈裟 幷 藥玉等 物賣レ之 以二彩絲一作二花枝一 貼二白紙上一掛二之於女兒背後一 是謂二藥玉一古以二藥丸一交二 其間一避二穢氣一 則中華所レ謂長命縷之類也
Mio さんによる要約 (一文だけ) :
彩絲で花の枝を造り、白紙の上に貼って 藥玉とし、女兒の背後に掛けます。
(参考文献 :『雍州府志』湯淺 吉郎 編. 京都叢書刊行会, 1916.)
- 古今要覧稿 (こきんようらんこう : 屋代弘賢 (やしろひろかた、1758 - 1841 年) 著 / 1821 - 1842 年成立 / 江戸後期の類書。560 巻)
- くすたま 藥玉
そもそも皇朝にも 此日藥玉を用ふる事は 邪気をはらひ 疫をのそく術にて 民家にも 五月五日 婦女子の翫ものに 色々の造り花を糸につけ 紙にて張なとして もてあそふは もと禁中にさせ給ふを 習ひて 下々にも なすことゝみえたり (参考文献 :『古今要覧稿 第1巻 神祇部 姓氏部 時令部』屋代弘賢 編. 国書刊行会 校. 国書刊行会, 1907 年)
- 嬉遊笑覧 (きゆうしょうらん : 喜多村節信 (きたむら ときのぶ、1783 - 1856 年) 著 / 1830 年成立 / 江戸後期の随筆)
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- 飾り花
わかき女房 ちご など 衣服に 糸はな 紙花にて あふち あやめなどを付るなり 按るに「拾芥抄」に「證類本草」を引て 是日 俗人取樗葉佩之避惡氣 とあるによりて あふちを帶るなるべし 古くより樗を あふち とすれども誤にて あふちは楝字にあたり 樗はちやんちんといふ木なり「同双紙春曙抄」巻二の頭書に くすだま「雲圖抄」には藥圭とかけり「河海抄」に續命縷 靈絲 彩絲 彩索なといへり みな くすだまの體なりと 云々 今女わらわ 端午に もてあそぶかざり花といへり「雍州府志」藥玉の條下に端午のことを云て 以彩絲作花枝貼白紙上掛之於女兒背後是謂藥玉 古以丸藥交其間避穢氣 長命縷之類也 とあり 是即かさり花なり おもふに その形は 今の兒女子のえりかけとて 花など縫いたる物のあるそれに似たらん 後には其用もなく 只もてあそび物とするより かざり花などゝ呼るなるべし
- 十二月かけ物
近世 堂上に十二月掛物とて 毎月に懸るものあり 皆藥玉の如く 五色の糸を垂れて 頭の方に 其の月々の草木の花 また 鳥虫などを作りものにして付たり 古代なき物どもなり(注3) 藥玉をもとにして 作り出しなるべし (或云これらの玩物 大抵 後水尾院東福門院の御意巧なりとぞ)「年中故事要言」民間にも五月五日 女童の翫物に 色々の作り花を糸につけ 紙に張などして 用いるは 藥玉を下に習てする事なりといふ (参考文献 : 喜多村信節『嬉遊笑覧 上』日本随筆大成編輯部 編. 成光館出版部, 1927.)
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6. 媒体を超えた表現型
時を経るにつれ、薬玉は生花から糸花へと自身を進化させて行きました。 そこには「枯れない美しさ」という意味が込められているような気がします。
そしてさらに、江戸時代末期頃からは、吉祥模様 (きちじょうもよう、吉祥文様とも) のひとつとして、 盛んに着物や蒔絵などに表現され、そのほか簪 (かんざし) などにも用いられるようになります。
薬玉は、自身を表現する媒体を多様化し、マニアに愛されるという素晴らしい作戦を、次々と展開します。
- 摘み細工指南 (山田興松 著 / 1909 年 / 明治時代の実用本)
- 藥玉 (くすたま) は之 (これ) を簪 (かんざし) にも 用 (もち) ひ 又 (また) 其他 (そのた) の 装飾品 (さうしょくひん) としても用ひます 其他 (そのた) 貝細工 (かいざいく) にもあり 造花 (ざうくわ) もあり 糸細工 (いとさいく) もありて 種々 (しゅ〴) の細工 (さいく) に意匠 (いしやう) を 施 (ほどこ) したるものがあります、けれども 此 (こ) の 摘細工 (つまみさいく) の上 (うへ) に出 (いづ) ものは ありませぬ (参考文献 : 山田興松『摘み細工指南』博文館, 1909.)
世界へ
古代、端午の節句には、薬玉と同じように邪気を払うとして用いられていた「あやめの鬘」がありました。
そのミームが絶えた一方で、進化を繰り返し、表現する媒体を変え、生存競争に生き残った薬玉が現在に続いています。
そして、そのひとつ。紙で表現される形を手に入れた薬玉は、「くす玉折り紙」と呼ばれ、インターネットという追い風を見方に、世界へ広がりつつあります。
形の美しさ、構成の不思議さなどで、人々の心を魅了し、つかまえ、そして、彼らの手を使い自分の複製を作らせ、時空に情報を繋げる。
鯉のぼりなどの他の端午グッズとは違って、五月五日という時間の制限も、日本という場所の制限もありません。「最強」と言いたくなるくらい、たくましい薬玉の姿がここにあります。
薬玉ミームはこれからもきっと、強靭に生存競争を進んで行くんだろうと予想します。また、ひょっとしたら世界のどこかで、さらに進化した薬玉の姿を見ることができるのかもしれない。などと、妄想を膨らませています。
紙で表現された薬玉
- © Mio Tsugawa, 2008
- name : ロージーローズ ver.リーフ
- Parts : 花 44 parts, 葉 44 parts
- joint system : paste and bind system
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注釈 / 参考文献
- 注1 : 鍾馗 (しょうき)
疫病神を追っ払い、魔を除くという厄除の神様。
- 注2 : 杜鵑花 (とけんか)。
誤ってサツキツツジの漢名とされたそうです。杜鵑は、ツツジ属を総称して呼ぶらしいので、サツキに杜鵑の字を当てるのは誤用だそうです(3)。
- 注3 : 安斎随筆 (あんざいずいひつ、江戸中期の随筆) に、ほぼ同文のものがあります。 五色の糸は活躍する
参考文献
- 2. 江馬務. "五月"『日本歳時全史』臼井書房, 1949.
- "杜鵑花"『大辞林 第三版』三省堂.
report : 2012年 11月 7日
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