Mio さんの部屋の壁には、たくさんの薬玉が「台所用保存ポリ袋 (小) 」に入れられ、無造作に押しピンでとめられています。また、病院などに行くと天井からリリヤーン等で吊るされているのもよく見かけます。
世間一般に、薬玉には「飾られるもの」の役があるようです。

おそらく、貴族達の間でさかんに贈答されていた時代にも、薬玉は飾られるものの役を果たし、たくさんの人の目を楽しませたに違いありません。その頃の薬玉の世界とともに、薬玉の飾り方や、飾られている薬玉を鑑賞してみたいと思います。

薬玉がどこに飾ることになっていたかは、年中行事書に詳しくあります。主に、御帳の柱、母屋の柱などに結びつけるとあります。御帳とは、御帳台 (みちょうだい。寝台) のことです。

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通常、御帳や柱に飾られた薬玉は、九月九日の重陽の節句に、菊の花や茱萸袋 (ぐみぶくろ) と取り替えられました。
しかし、薬玉の運命は波瀾万丈。色々あったようで。

重陽の節句までに糸が残っていない

枕草子 (まくらのそうし : 清少 納言 著 / 1000 年頃の成立 / 平安時代の随筆)
節は
(そら) の氣色 (けしき) の曇 (くも) り渡 (わた) りたるに、后宮 (きさいのみや) などには、縫殿 (ぬひどの) より御薬玉 (おんくすだま) とて、色々 (いろいろ) の糸 (いと) を組 (く) み下 (さげ) て參 (まゐら) せたれば、御几帳 (みきちやう) (たてまつ) る母屋 (もや) の柱 (はしら) の左右 (さう) に付 (つけ) たり。九月九日 (ながつきこゝのか) の菊 (きく) を綾 (あや) と生絹 (すゞし) の絹 (きぬ) に包 (つゝみ) て參 (まゐら) せたる。同 (おな) じ柱 (はしら) に結 (ゆ) ひ付 (つけ) て月頃 (つきごろ) ある薬玉 (くすだま) (と) り替 (かへ) て捨 (すつ) める。又 (また) 薬玉 (くすだま) は、菊 (きく ) の節 (をり) まで在 (ある) べきにやあらん。然 (され) ど其 (それ) は、皆 (みな) (いと) を引 (ひ) き取 (とり) て、物結 (ものゆひ) などして、少時 (しはし) も無 (な) し。

現代語訳 :
入梅の頃とて、空はすつかり曇つて居るのに、后の宮などには、縫殿 (ぬひとの) から、 御藥玉に、いろ〵の美しい糸を組み下げて、さし上げるのを、御帳台をすゑ申す母屋の柱の左右に下げた (のが美しく晴々しい。) (去年の) 九月九日の (菊の節供の) 菊を、綾と生絹に包んでさし上げた藥玉が、それからずつとその柱に結びつけてあるのを、菖蒲のと、とりかへて捨てるらしい。又この菖蒲の藥玉も、菊の時分まで、かけて置くのがほんとうだらうけれども、これは、皆な、糸を抜き取つて物をしばつたりして、ぢきになくなる。

(参考文献 :小林栄子『枕草子 日訳新註』言海書房, 1935.)

季節外れの

千載和歌集 (せんざいわかしゅう : 藤原 俊成 (ふじわらのしゅんぜい、1114-1204 年) 撰 / 1188 年頃成立 ?/ 平安末期の勅撰和歌集)
枇杷殿の皇太后宮 (三條后 藤原姸子) わづらひ給ひける時 所をかへて試むとて 外 (ほか) にわたり給へりけるを かくれたまひてのち 陽明門院一品親王 (禎子内親王) と申しける枇杷殿にかへり給へりけるにふかき御帳のうちに菖蒲くすだまなどの枯れたるが残りたるを見てよみ侍りける

菖蒲草 涙のたまにぬきかへて をりならぬねを なほぞ掛けつる辨乳母

かへし

玉ぬきし 菖蒲 (あやめ) の糸 (草 ?) はありながら よどのはあれ (荒) む 物とやはみ (見) 江侍從

註釈 :
◦ あやめ草は、菖蒲のこと。涙の玉にぬきかへて のぬくは、玉を緒に通すこと。これまでは藥玉といふ玉を通してゐた菖蒲を、今は涙の玉に通し變へて。をりならぬ は季節はづれで、卽ち五月でないからかくいつたのである。ね は菖蒲の根に、泣くの音 (ね) のネをかけたもの。かけつるは御帳に懸けたこと。歌の意は、皇太后御在世當時は、菖蒲は藥玉を貫きてゐたのを、崩御後の今は涙の玉に貫きかへ、時節はづれの根を懸けて兄崩御のことを泣き悲しむばかりであるとの義。
◦ 辨乳母 - 前加賀守顯時の女、三條天皇の皇女、朱雀天皇の后陽明門院禎子内親王の乳母である。

◦ 返事 - この歌の意は、藥玉をぬいた菖蒲の草は今もなほ以前のままに残つてゐるが、その主皇太后宮がお亡くなられてからは夜殿 (寝室) はかうも荒れるものとは思ひもかけないことであつたとの意。
よどの は、夜殿に淀野 (山城の菖蒲の名所) をかけたものである。
◦ 江侍從 - 赤染衛門の女。父は侍從大江匡衡で、その父が侍從であつたところから江侍從といふ。 (参考文献 :『最新研究徒然草詳解』徳本 正俊. 芳文堂, 1938.)

枯れているのが風情

徒然草 (吉田兼好 (よしだけんこう、1283 - 1352 年頃) 著 / 1330 - 1331 成立かも / 鎌倉時代の随筆)
第一三八段
祭過ぎぬれば、後 (のち) の葵 (あふひ) 不用なりとて、或人の御簾 (みす) なるを 皆とらせられ侍りしが、色もなく覺え侍りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍 (すはうのないし) が、

かくれども かひなき物は もろともに みすのあふひの かれ葉なりけり

とよめるも、母屋 (もや) の御簾に葵のかかりたる枯葉をよめるよし、家の集 (しふ) に書けり。 ふるき歌の詞書 (ことばがき) に、「枯れたる葵にさしてつかはしける」とも侍り。 枕草子にも、「こしかたこひしき物、かれたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひよりたれ。鴨長明 (かものちやうめい) が四季物語 (しきのものがたり) にも、「玉だれに後の葵はとまりけり」とぞ書ける。おのれと枯るるだにこそあるを、名残なくいかがとり捨つべき。
御帳 (みちやう) にかかれるくす玉 (だま) も、九月九日 (ながつきここのか) 、 菊にとりかへらるるといへば、さうぶは菊のをりまでもあるべきにこそ。 枇杷皇太后宮 (びはのくわうたいこうぐう) かくれ給ひて後、古き御帳の内に、さうぶ、くす玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「をりならぬ ねをなほぞかけつる」と辨乳母 (べんのめのと) のいへる返事 (かへりごと) に、「あやめの草はありながら」とも江侍從 (がうじじゅう) がよみしぞかし。

現代語訳 :
賀茂の祭がすむと、後の葵はもう不必要であるといつて、或人が御簾に掛つてゐる葵をすつかり取らせられなさつたが、自分 (兼好) はそれを見て、どうも風流氣のないやりかただと思ひました。然しそれは立派な方のなさることであるからして、さうすべきものかと思つたが、周防内侍が、次のやうに、

いくら掛けておいても甲斐のないものは、あの方々と共に見る事の叶はない簾の葵の枯葉である。卽ちいくらあの人に思ひをかけた所で、斯うして離れ〴になつて、 逢ふ日のない二人の中だから、何とも致方がない。

と歌によんだのも、母屋の御簾に掛つてゐた葵の枯葉を詠んだものであるとのことが、周防内侍の歌集に書いてある。 古歌の前書きにも、「枯れた葵にさし添へ送つた歌」といふのもあります。 枕草子にも、「過ぎ去つた昔の戀しいものは、枯れた葵である」との意味が書いてあるのは、自分 (兼好) がよむと、清少納言のあの言が如何にもなつかしう思ひつかれるのである。鴨長明の著作である四季物語の中にも、「玉だれに後の葵はとまりけり」と書いてゐる。葵が自然に枯れるのでさへ惜しいものであるのを、どうしてすつかり取捨てられよう。そのやうなことは出来ない。御帳臺にかかつてゐる藥玉も、九月九日に菊にとりかへられるといふ事だから、菖蒲は菊にとりかへられるその折まであるべきものである。枇杷皇太后宮が崩御あそばされて後、古い御帳臺の中に、菖蒲、藥玉などの枯れたのがあつたのを見て、「をりならぬねをなほぞかけつる」と辨乳母が言つてやつた返歌に、「あやめの草はありながら」とも、江侍從が詠んだのであつた。 (参考文献 :『最新研究徒然草詳解』徳本 正俊. 芳文堂, 1938.)

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注釈

レポート : 2012年 11月 3日

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