薬玉についている薬の玉を、略して「薬玉」といいます。
なんて、ややこしい。と、いうのは、とりあえずカタワラにそっとしておいて、藥の玉ってナンナンダ !? の内なる声に耳を傾けてみたいと思います。
まず、薬の玉について概要を引っ掴み、さらに「いつ」と「なぜ」を使って、ずんずん迫る。
...はずでしたが、距離がさっぱり縮まりまへん。
ということで、いつもの妄想のひとときを。 (リサーチ中っちゅうことで)
江戸時代後期に出版された、大阪の画家 速水春暁斎 (はやみしゅんぎょうさい) による「年中行事大成」に、 柱などに掛ける薬玉の作り方が載っています。その冒頭は、
凡 (およそ) 柏葉 (かしはゞ) を造 (つく) り 正中 (まんなか) に三ツの玉 (たま) を付 (つ) け 其 (それ) に薬 (くすり) を入 (い) れ (参考文献 : 速水春暁斎『年中行事大成』1806. 早稲田大学図書館 古典籍データベース.)
と、なっています。この柏の葉に付ける三つの玉が「薬の玉 (薬玉)」と呼ばれるもので、薬とはお香を指します。
現在の辞典類では「種々の香料を詰めた錦の袋」などと説明がなされています。近世、これは匂玉 (においだま) とも呼ばれたようです。
匂玉 :
球形に作られた匂い袋。匂の玉。
(参考文献 : "匂袋"『日本国語大辞典 第二版』小学館国語辞典編集部 編. 小学館, 2001.)
この薬の玉に五色の糸のみを垂れて身につける薬玉を「掛香 (かけごう) 」といいます。
詳しくはこちら。
匂袋については、こちらで暴走。
文献などでは、「薬の玉」とは言わず「薬玉」としているものを多く見かけます。
或家 (あるいへ) に傳 (つた) ふる古代 (こだい) の 藥玉 (くすだま) の圖 (づ) を見 (み) まするに、 紅白 (こうはく) の杜鵑花 (とけんか) 、楝 (せんだん) 、 艾 (もぐさ) 、花橘 (はなたちばな) 、菖蒲 (しょうぶ) 、 藥玉 (くすだま) などを一束 (そく) に集 (あつ) め、 是 (こ) れを五色 (しき) の糸 (いと) にて結 (むす) び、上 (うえ) を打懸 (うちかけ) の輪型 (わかた) となし、末 (すゑ) は絲 (いと) の尾長 (おなが) く下 (した) に垂 (た) れるので、 (参考文献 : 春秋庵薫甫『花道全書 下巻』駸々堂書店, 1921.)
Topへお香の歴史は古く、6 世紀には仏教文化とともに日本に伝わったとされ、東大寺正倉院には「蘭奢待 (らんじゃたい) 」と呼ばれる香木が現存しています。遣隋使、遣唐使の貿易の中でも香料は多く往来しました(1)。 平安時代には、お部屋や衣服などに香を焚く「空薫 (香) 物 (そらだきもの)」が流行り、「薫物合 (たきものあわせ) 」と言って、色々な練り香を持ち寄ってそれを焚き、その優劣を競う宮廷遊戯も生まれました。 が、 このお香を、一体いつ頃から薬玉と一緒に用いるようになったのか。と、頭の中でクエスチョンマークがゆらゆらします。 薬の玉の生まれた頃を推理してみます。
まず、長命縷の文化が日本に入って来た頃、そして奈良時代を考えます。
この時代に薬の玉をつけたというのは、ありえないと
仮定します。
理由は「百索縷之軸」です。詳しくはこちら。
つまり、奈良時代に存在した「百索」は、糸巻きの軸に巻かれる「糸」または、「紐」状のものだったと考えられます。そういうわけでお香は途中から薬玉に加わったものと推測します。
次は薬玉が文献に頻繁に登場するようになった、平安時代です。
927 年に成立した平安時代の法典、延喜式にある薬玉の材料を参照すると、
と、あります。この薬玉はすでに糸状のものから進化して、菖蒲や艾、雑花などと一緒に束ねられますが、しかし、ここにお香の姿はありません。
おそらく、この頃の薬玉は純粋に「菖蒲、艾、時節の花を束ね、五色の糸を垂らしたもの」で、お香が加わるのはこれ以降のことだと推理をすすめます。
薬の玉が登場する確かな記録として、Mio さんが探し出した一番古い文献は「後宮名目」です。「藥玉之法」として、お香の調合の仕方が書かれてあります。
この本の成立年は未詳ですが、著者などの情報から、だいたい鎌倉時代末期、または室町時代初期頃と考えられます。
本の内容はこちらでくわしく。
また、古記録では、御湯殿上日記 (おゆどののうえのにっき) の延徳四年 (1492 年) 五月の記事に、それらしいものがあります。
延徳四年 五月 三日。 むろまちとのへの御くす玉 こよひより 御にほひ せらるゝ。 (参考文献 :『続群書類従 補遺 三 お湯殿の上の日記』塙 保己一 編, 太田 藤四郎 補. 続群書類従完成会, 1932.)
まぁ、この香りが、菖蒲、艾のもの。だという可能性がなきにしもあらず......。
あんまりにも資料が乏しいので、暴走のしがいがあります。
と、いうことで結論。
答え :
鎌倉時代
Mio さんの妄想
引き続き、調査致します。
「薬玉」は、中国の長命縷に起源を持ちますが、それを独自に進化させた日本独特の呪物だと言えます。
中国に「薬玉」は存在しません。なので、ダイレクトに「薬玉は中国の風習が伝わったもの」とするのは少々乱暴だと言えるかもしれません。
それではなぜ日本では、薬の玉をつけるようになったのか、色々妄想してみました。
薬玉は、端午の節句に飾られて、重陽の節句に茱萸袋と取り替えられました。この期間は約 4 ヶ月です。切り花の命はとても短く、すぐに枯れてしまいます。だから、薬玉を糸花などの造花で作るようになったんじゃぁないかと想像します。
しかし、この造花には香りがありません。そこで、お香の薬の玉を付けた。と、考えるのが 1. の答えです。
2. は「薬玉に艾や菖蒲を用いるのは、中国の艾人形、艾虎の風習を取り入れた」と考えた(注1)ように、
「薬玉にお香の袋を付けるのは、中国の匂袋の風習を取り入れた」と考えるものです。
日本の匂袋が、日本で生まれた物なのか、それとも、中国あるいはインド発祥なのかは分かりません。 (外来物だと思っていますが、確たる根拠はなし) 。しかし、匂袋を魔除けとする風習は中国から伝わったと、考えています(注2)。
匂袋と無関係じゃない薬の玉も、やはり、中国の匂袋と関係があったりするのかもしれません。いや、可能性としては、すこぶる大なはず。と、いうことで結論。
答え :
中国の風習を取り入れた。
(Mio さんの妄想)
ただし、この仮定で引っかかるのは、匂袋を魔除けとする風習が日本に伝わった時期です。
いままでのすべての妄想をひっくり返して、仏教文化が伝わった頃と同時期。という可能性も考えられます。
引き続き、調査致します。
レポート : 2012年 11月 29日