広辞苑第五版 の「薬玉」の項目、「平安時代に盛んに贈答に用いた」という解説を読むと、
じゃぁその前はどうだったんだ ?
などと「余計な詮索」さんが、踊りだします。

実際、律令法典の「延喜式」やら清少納言の「枕草子」やら、文献などに「薬玉」がしっかり出てくるのは平安時代以降です。
果たして奈良時代に薬玉はあったのか。
これは「妄想しろ」というメッセージに違いありません。

というわけで、いきなりですが、結論。

答え :

それでは、なぜそういう結論に至ったか、 ちょっと自慢げ(鳥取弁 : 自慢そうに)ご紹介します。

以前の考え方

以前運営していたサイトでも、奈良時代に薬玉があったのかという「余計な詮索」さんが騒いだので、ツボにはまって時間をかけました。
その時の検証方法は、年代的に考えてみる。というやり方です。

日本大百科事典 (小学館, 1986.) で薬玉を引くと、 古く中国から伝わり、「続日本後紀」任明 (にんめい) 天皇嘉祥 (かしょう) 二年 (八四九) 五月五日の項に「薬玉」とあるのが最初とされる。 と、あります。
"「薬玉」とあるのが最初とされる" というのは、「薬玉という文字が」という意味なのか、 それとも「長命縷などのモロモロを含む薬玉」なのかはナゾですが、 とりあえず、「続日本後紀」にガサ入れしました。

続日本後紀 (しょくにほんこうき : 藤原良房、藤原良相、伴善男 等撰 / 869 年成立 / 平安時代の歴史書)
戊午、天皇御武德殿、馬射、 六軍擁節、百寮侍座、有勑、命下二文矩等宴宣詔曰、 天皇 詔旨良万止勑命使人等聞給 五月五日 藥玉 酒人命長福有止奈毛 聞食、故是以藥玉賜、御酒賜波久止宣、 日暮乗輿還宮

読下し : 天皇 から 波久止宣まで
スメラガ オホミコト ラマト ノリ玉フ オホミコトヲ ツカヒビトラ キコシメシタマヘト ノリ玉ハク
サツキノ イツカノヒニ クスダマヲ オビテ サケノムヒトハ イノチナガク サキハヒアリ トナモ キコシメス
カレコゝヲモテ クスダマ タマヒ ミキタマハクト ノリ玉フ (参考文献 :『六国史 巻七』朝日新聞社, 1941.)

Mio さんによる鳥取弁訳 (1):
戊午 (つちのえ、うま)
天皇さんは武徳殿に行きなって、騎馬の射的を見んさった。六軍が旗を持ちなって、ようけ (鳥取弁 : たくさん) の役人さんたちは、座って待ちなった。文矩さん達に宴会に出なるように言いなって、詔をくだされた。
「天皇の詔旨 (おおみこと。天皇のお言葉) であると のたまう (宣ふ : 動詞の「の (宣) る」に「たま (給) う」の付いた「のりたまう」の音変化で、本来は、上位が下位に告げ知らせるの意 (大辞泉. 小学館)) け。 勅命を使者らちゃ、聞きんさいと のたまうが。
五月五日に薬玉を佩びて、酒を飲むと、命が延びて、福があると聞く。だけ、薬玉を賜い、酒も賜うと のたまうけ。」
日が暮れて、輿に乗って宮に帰んなった。

「続日本後紀」は、平安前期の歴史書で、869年に成立。とあります。 平安時代 (794 - 1185 年) に入ってから間もなく (?) して成立したので、奈良時代後期にも「薬玉」はあったんじゃないか。などと妄想した次第です。

万葉集

「薬玉」が出てくる奈良時代の文献、とされて よく登場するのは「万葉集」です。
しかし、この万葉集がなかなかのくせ者で、薬玉の輪郭がどうもはっきりしません。 つまり、「薬玉」という文字がどこにも登場せず、それらしい気配がある。というだけです。

決定的ではない理由

「五月の珠」は一説では薬玉のことだということですが、「タチバナの実」と解説されることもあります。
また、「菖蒲」や「橘 (たちばな) 」を珠に貫 (ぬ) いて、出来上がるものは、どうやら薬玉だけではないようです。

この詩では、「あやめ草、花橘」を「珠に貫」いて、「蘰」 (かずら) (注1)にすると言っています。

「五月の珠」「珠爾奴久 (たまにぬく)」などの「薬玉」を信じない訳ではありませんが、歌そのものに薬玉が登場している訳じゃぁないので、頭の中では鐘が鳴らずなんだかいまいちです。

万葉集を後押ししてみる

せっかくなので、少し万葉集を後押ししてみます。
似たような表現で明らかに薬玉について言っているものがあります。

蜻蛉日記 (藤原道綱母 (ふじわらのみちつなのはは : ? - 995 年) 著 / 954 - 974 年 / 平安時代中期の日記)
天禄三年
五月 (さつき) になりぬ。菖蒲 (さうぶ) の根長きなど、 ここなる若き人騒げば、つれづれなるに、取り寄せて、 (つらぬ) きなどす。「これ、かしこに、おなじほどなる人に奉 (たてまつ) れ」など言ひて、

(かく) れ沼 (ぬ) に 生 (お) ひそめにけり あやめ草知る人なしに 深き下根を 道綱母

と書きて、中に結びつけて、大夫 (たいふ) のまゐるにつけてものす。
返りごと、

あやめ草 根にあらはるる今日こそは いつかと待ちし かひもありけれ時姫

大夫 (たいふ) 、いま一つとかくして、かのところに、

わが袖 (そで) は 引くと濡 (ぬ) らしつあやめ草 人の袂 (たもと) に かけてかわかせ道綱

御返りごと、

引きつらむ 袂は知らずあやめ草 あやなき袖にかけずもあらなむ大和の女

と言ひたなり。
現代語訳 : (最初のところだけ)
  • 五月になった。根の長い菖蒲 (しょうぶ) などと、家の若い娘が騒ぐので、 わたしも所在なさに、取り寄せて、糸を通して薬玉 (くすだま) を作ったりする。
    (参考文献 :『新編日本古典文学全集 13 土佐日記 蜻蛉日記』菊池 靖彦, 木村 正中, 伊牟田 経久 校注 · 訳. 小学館, 1995.)
  • 五月になった。菖蒲の根の長いのを捜し集めようと家の若い女達が騒いでゐる時、自分も徒然な餘りに絲で其れを繋いだりした。 (参考文献 :『現代語訳平安朝女流日記 蜻蛉日記 巻一』与謝野晶子 訳. 非凡閣, 1938.)

本文に「薬玉」という文字が無くても、これが「薬玉」だと主張するのには、「注釈にある」という以外に理由があります。

  1. 贈答されている。
  2. 中に、和歌が添えられている。
  3. 「袂にかける」といっている。

万葉集を後押ししてみましたが、やはりどうにも、こんにゃくのようにぐにゃんぐにゃんで頼りない感じです。というわけで、こっちの路線はあっさりボツにします。

だからといって、端午の行事は奈良時代にはすでにあった。というところから、「だけぇ、薬玉もあったと思うだけぇ。」(鳥取弁) と結論を引っ張る。などというマトモなことはしまへん。直球すぎて、退屈です。

さて、妄想力の出番です。

薬玉の五色の糸は、もともとは陰陽五行説の呪物(注2)です。そして、この五色の糸は五月五日の端午だけではなく、七月七日の乞巧奠、初卯の卯杖、卯槌などでも用いられます(注3)。五色の糸のおまじないが、他の行事でも使われているというところがポイントです。

そこで、これらの五色の糸のおまじないは、五経博士 (ごきょうはかせ) から陰陽五行説が伝わったとき(注4)に一緒に伝わったんじゃぁないだらぁか (鳥取弁) 。と、妄想してみました。
もしそう仮定するなら、五色の糸が伝わった時代は奈良時代をさらに遡り、推古天皇 10 年 (602 年)(注5) の飛鳥時代になります。

しかし、行事が伝わらず五色の糸だけが始めに伝わったとしても、それが長命縷なのか、乞巧奠の糸なのか、卯杖の糸なのか、それともそのいずれでも無いものなのか、さっぱり見分けがつかないことになります。
まぁ、それはそれでいいのですが、ただ「奈良時代に薬玉があったのか」のテーマを追求するのには、たいして意味がありません。五色の糸は、長命縷である必要があるのです。

そこで、さらに妄想を進めてみました。

じゃぁ、この陰陽五行説伝来の時に、五色の糸も伝わり、ついでに (!) これらの行事も一緒に伝わったんじゃぁないだらぁか。と......。
(ちょっと、オソマツすぎるか......)

蛇足 :
五経博士が陰陽五行説を伝えたとする推古天皇時代は、冠位十二階の成立 (603 年)、十七条憲法の制定 (604 年)、など聖徳太子が活躍した時代です。小野妹子などの遣隋使の派遣も、五年後の 607 年にあったりします。

散々妄想を広げましたが、やはり何かしらの証拠が欲しいものです。飛鳥時代とまではいかなくても、奈良時代に薬玉があったのか、どうなのか。
しかし、どうも六国書は全滅っぽい様子。じゃぁ、紙媒体 (古文書) に無いなら、木媒体 (木簡) か ? などと、さらに暴走劇を繰り広げようとしていたところ、あらら。こんなところに。

ついに見つけた !

聖武天皇 (701 - 756 年) は第 45 代、奈良時代の天皇です。
その聖武天皇の崩御の後、光明皇后が天皇の愛用品やら遺品やらを 5 回に渡って東大寺に献納しました。
その時の目録が「東大寺献物帳」と呼ばれるもので、全部で 5 巻あります (「国家珍宝帳」「種々薬帳」「屛風花帳」「大小王帳」「藤原公真蹟屛風帳」)
そのひとつの「国家珍宝帳」は、756 年 6 月 21 日、聖武天皇の四十九日の法要のときの目録です。
そしてこの国家珍宝帳の中に、うぉっと思う一品。

名前は 「百索縷軸 (ひゃくさくるのじく) 獻物帳には「百索縷一巻、畫軸」とあるようです。宮内庁のホームページには、

両端に彩絵をほどこした大型の糸巻き。五色の糸を巻いて諸種の災難を避けるまじないとしたもの。中国の風習に起源をもつ。 (宮内庁ホームページ)

と、説明があります。
百索とは、長命縷の別名です。 薬玉の名別
念のため、「百索」が出てくる参考文献をずずずいっと。

翰林志 (唐の李肇 撰 : 詳しい事はようわかりまへん)
端午衣一副金花銀器一事百索一軸青團鏤竹大扇一柄角糭三服粆蜜重陽酒糖粉餻冬至嵗酒兔野雞其餘、時果新茗瓜新厯、是為經制。
尭山堂外紀 (蒋一葵 撰 : 明 (1368 - 1644 年) 代の小説)
又「謝端午日恩賜百索」云: 仙宮長命縷、端午降殊私。事盛蛟竜見、恩深犬馬知。余生儻可続、終冀答明時。
永楽大典 (えいらくたいてん : 解縉(かいしん)らの編 : 明代に編纂された中国最大級の類書。2 万 2877 巻。1407 年成立)
(西湖老人繁勝録) 端午節 : 撲賣諸般百索、小兒荷戴系頭子、或周彩線結、或用珠兒結。
行走在宋代的城市 (伊 永文著 : 宋代の風流などを紹介。 2005 年 / 中華書局 出版)
一入五月、市民們便紛紛湧上街頭、爭相購買鼓、扇、百索
鼓、都是小鼓、有的懸掛架上、有的放置座上。
扇、都是小扇、分青、黃、赤、白四種顏色、但或繡或畫或縷金或合色、式樣不一。
百索、是用彩絲線結成紉的「百索紉」。
這些端午節物、其源出於夏至陰氣萌生、市民恐物不成、故制作鼓、扇、百索、用來避兵鬼、防病瘟。
百索、自漢代傳來、每到五月五日、人們用五色朱索裝飾門戶以防惡氣。
宋代市民卻把「百索」系在胳臂上,以增祝願成份、正像一首宋詞所道 :「自結成同心百索、祝願子更親自系著」

さて、この「百索縷軸」ですが、大きさはなんと、長さ 32.9 cm、直径 6.39 cm。
ちょっとどころか、かなりでけぇー。

五色の絲どころか、五色の縄でも巻いたんじゃぁないかと思うくらいです。
もしこれが本当に糸だけを巻く軸なら、その糸の量は、半端ねぇはず。ひょっとして、乞巧奠や卯杖、卯槌など、使い回しにしたんじゃ......。と、 またまた暴走したくなりましたが、まぁ、何しろ聖武天皇の遺品なので。

正倉院御物図録より

第三十三圖 百索縷軸
長三二 · 九糎  徑六 · 三九糎

獻物帳に「百索縷一巻、畫軸」とあり、今軸のみを存す。 桑製、中央部にて接合し、軸身は紡錘形の素材、軸端は粉地に 暈繝彩色(注6)で 實相華文を描いてある。

古昔支那で端午の日に、五色の縷を以て索 (なば) を作り、之を臂にかけて 防災のまじなひとし、これを百索と名づけた、百幅百壽索の稱であると云ふことである。 今存するものはその索を巻いた軸である。 (参考文献 :『正倉院御物図録』帝室博物館, 1944.)

百索縷軸は、正倉院の北倉に現存しています。
宮内庁ホームページで写真を見ることができます。

注釈 / 参考文献

注釈

参考文献

  1. 『全現代語訳注 続日本後記』近藤 豊 訳. 2000.

レポート : 2012年 4月 25日

Topへ