「あやめのかずら」または「しょうぶのかずら」と読みます。「あやめかずら」とも言います。漢字ではかずらを「蘰」とも書きます。別名、あやめの挿頭 (かざし)
端午グッズのひとつで、五月五日の未明、糸所より禁中へ献上されます(1)。菖蒲から作られて、邪気を払うという働きを持つなど、薬玉ととてもよく似ています。 しかし、姿や媒体は変われども、現在にミームを伝える薬玉とは違い、あやめの鬘のミームは後世に残ることなく廃れてしまいます。

薬玉の親戚、あるいは兄弟とも言える このあやめの鬘の情報を、もっと掘り起こしてみたいと思います。

こたえ :

薬玉や続命縷が一体いつから日本にあるのか分かりませんが、あやめの鬘もいつからあるのかさっぱり分かりません。
ただ、残っている記録は薬玉のものよりも古く、日本最古の和歌集「万葉集」に、詠まれた歌がいくつか残されています。最も古いと思われるものは山前王 (やまくまおおおきみ) の作で、石田王が亡くなった時に読まれたとされる和歌です。山前王は忍壁皇子 (おさかべのみこ) の子供で、続日本紀によれば、養老七年十二月に亡くなったとされます。養老 7 年は 724 年、奈良時代初期にあたります。

万葉集 (まんようしゅう : 大伴家持が現存の形に近いものにまとめたっぽい / 成立年未詳、最新の歌からして 759 年 以降 / 現存最古の歌集)
同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首
角障經 石村之道乎 朝不離 將歸人乃 念乍 通計萬四波 霍公鳥
鳴五月者 菖蒲 花橘乎 玉爾貫 (一云 貫交) 蘰爾將爲登
九月能 四具禮能時者 黄葉乎 折挿頭跡 延葛之彌遠永 (一云 田葛根之彌長爾) 萬世爾 不絕等念而 (一云 大船之、念憑而)
將通 君乎婆明日從 (一云 君乎從明日香) 外爾可聞見牟

つぬさはふ いはれのみちを あささらず ゆきけむひとの おもひつつ かよひけましは ほととぎす
なくさつきには あやめぐさ はなたちばなを たまにぬき かづらにせむと
ながづきの しぐれのときは もみぢばを をりかざさむと はふくずの いやとほながく
よろづよに たえじとおもひて
かよひけむ きみをばあすゆ よそにかもみむ (参考文献 :『日本古典全集 萬葉集略解 2』与謝野寛 等編. 日本古典全集刊行会, 1926.)

また、続日本紀の聖武天皇、天平十九年 (747 年) に「五月五日、菖蒲の葛を身につけんものは、宮中に入ったらいけんで(鳥取弁)」などという記事もあります。しかし、記事には「昔の者、五日の節会には」とあり、内容からして、この頃にはすでに五月五日に菖蒲の葛を身につける風習は廃れており、そして、この詔により再び復活したものと考えられます。

続日本紀 (しょくにほんぎ : 菅野真道 (すがのまみち、741 - 814 年) 、 藤原継縄 (ふじわらのつぐただ、727 - 796 年) 等著 / 六国史の第二。平安初期 (697 - 791 年間) の歴史書。)
庚辰、 天皇御南苑玉フ騎射走馬、 是日、太上天皇詔曰、 昔 (ムカシ) 者 五日之節ニハ、 常 菖蒲 (アヤメ) (カツラ) 、 比來已 (ヤメ) 、 從今而後、 非菖蒲ヲバ、宮中 (参考文献 :『六国史 巻 3 続日本紀 巻上.下』佐伯有義 編. 朝日新聞社, 1929.)
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九條殿記に記されている、あやめの鬘の作り方です。小野宮年中行事にも、この九條殿記が引用されていて同じことが書かれてあります。古くは、蓬をもつけたと言います(2)

九條殿記 (くじょうどのき / 藤原師輔 (ふじわらのもろすけ : 908 - 960 年) 著 / 藤原師輔の書いた日記「九暦」の一部)
菖蒲蘰ノ造法
一、造昌 (菖) 蒲蘰之體、
用細昌 (菖) 蒲草六筋、 短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、 以短四筋當巾子 · 前後各二筋、以長二筋廻巾子、 充前後草結四所、前二所後二所、每所用心葉縒組等、 (参考文献 : 『大日本古記録 九暦』東京大学史料編纂所 編. 岩波書店, 1958.)

菖蒲にて作れる頭上の飾。其の製は、長さ九寸程の菖蒲二筋づつを、冠の巾子 (こじ) (注1) の前後に當て、別に長さ一尺九寸許の菖蒲二筋を以て、其の上を巻き、前後二所づつ四所縒組 (ヨリクミ) の絲にて結び付くる (参考文献 : 関根正直, 加藤貞次郎『有職故実辞典』林平書店, 1940.)

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聖武天皇の天平 19 年以降、五日の節会にあやめの鬘を身につける風習はしばらく続いたと考えられます。上記、「九條殿記」をはじめ、平安時代の法典「延喜式」や村上天皇 (在位、946 - 967 年) の頃の儀式書「西宮記」などにも記録が残ることから、平安時代中期頃まで行われていたことは確かです。

延喜式 (えんぎしき : 藤原 時平、藤原 忠平 等の編 / 905 年 - 編集、927 年成立、967 年施行 / 平安時代の律令法典)
  • 巻十一 太政官
    凡五月五日天皇觀騎射幷走馬。弁及史等撿挍諸事。 所司設御座於武德殿。是日内外群官皆着菖蒲鬘。諸司各供其職事見儀式
  • 巻二十八 兵部省
    凡同日節会。文武群官著菖蒲蘰 (参考文献 :『国史大系 第13巻』黒坂勝美 校訂, 経済雑誌社 編. 経済雑誌社, 1901.)
西宮記 (さいぐうき、せいきゅうき、さいきゅうき : 源高明 (みなもとのたかあきら : 914 - 983 年) 著。成立年未詳。平安時代の有職故実書)
五月五日
天皇出御、菖蒲蘰日景蘰 (参考文献 :『史籍集覧 編外 西宮記』近藤圭造 編. 近藤出版部, 1932.)

しかしこのあと、あやめの鬘の消息はぷつりと途絶えてしまいます。
室町時代中期の有職書「年中行事歌合 (1366 年) 」や、同じく室町中期の公事書「公事根源 (1423 年頃) 」などがあやめの鬘のついて及んでいますが、両書の性質からいずれも過去を振り返るものです。

年中行事歌合 (ねんじゅうぎょうじうたあわせ : 二条良基 (にじょう よしもと、1320 - 1388 年) 等詠、冷泉為秀 (れいぜい ためひで、? - 1372 年) 判 / 1367 年成立 / 年中の公事を歌合の形式で説明した有職の参考書)
十五番
  五日節會五月五日   經賢僧都

御酒 (みき) たまふ けふのためとや 菖蒲草 六の司 (つかさ) も かねてひきけむ

右  騎射 (ムマユミ)   女房

射手人の あやめのかつら ながきねに けふのまゆみを 引きやそへまし

左歌。六衞府菖蒲を奉る心にや。右は菖蒲のかづら 長き ねにとて。 けふの眞弓を引やそへまし といへる。心詞珍しく侍ば。勝べきよし 判者申侍しかども。 左も殊なる難なく侍るよし申侍て。持と定られ (き脱歟)。
左。五月の節會の心なり。五日宴を群臣に給也。 今は絕てなきにや。左右近衞 左右衞門 左右兵衞 菖蒲を奉る。あやめの輿とて 南殿にかきたて侍也。 右是は古今などに 見ずもあらずなどよめる。 右近馬塲の騎射にはあらず。 五月五日豐樂院にて。昔は騎射を御覽ぜられしなり。是を馬弓と云。 天子群臣。みなあやめのかづらを冠にかけて。節會の儀有しなり。くす玉を もたまひけるにや。 いと興有事にこそ侍れ。 (参考文献 : 『群書類従 第五輯 公事部九』塙保己一 編纂. 経済雑誌社, 1902.)
公事根源 (一条兼良 (いちじょうかねよし (またはかねら)) 著 / 1423 年頃成立 / 宮中の公事 · 儀式の起源 · 沿革を述べた書)
  • 菖蒲 三日
    (中略) 天平十九年五月より詔ありて、百官諸人悉く菖蒲 (アヤメ) の鬘 (カツラ) をかくべし。かけざらむ者は、宮中に入るべからずと定めらる。
  • 五日節會
    天皇武德殿に出御なりて、宴會を行はれ、群臣に酒を給ふなり。内辨なども四節に同じ。人々皆あやめの鬘をかく。日蔭の鬘の如し。 (参考文献 : 一条兼良『公事根源新釈 下巻』 関根正直 校註. 六合館, 1903.)

おそらくあやめの鬘は、 西宮記以降の儀式書、年中行事書などには登場しないことなどから、五日の節会が廃れて行った(注2)と同時に、消滅していったんじゃないかと妄想します。
そしてまた、万葉集以降の歌集、そのほかの古典籍などにもさっぱり探せなくなるので、薬玉のような復活劇も演じられることも無く、そのまま静かに終焉したものだと思われます。

答え :

八雲御抄 (やくもみしょう : 順徳天皇 (1197 - 1242) 著 / 成立年未詳 / 鎌倉初期の歌論書)
菖蒲 あやめぐさ。
抑唯あやめとばかりいへり。但くちなはの名なりと云へり。通俊匡房と有種種相論。但あやめといへるうたおほし。非難。通俊難無由。
萬に、あやめぐさかつらにきむ日といへり。 (参考文献 :『列聖全集 御撰集 2』列聖全集編纂会 編. 列聖全集編纂会, 1917.)
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注釈 / 参照

注釈

参考文献

  1. 2. 『国史大辞典』八代国治 編. 吉川弘文館, 1926.
  2. 『大辞泉』小学館,

レポート : 2012年 12月 3日

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