薬玉を辞典で調べると解説に並ぶ「長命縷」という文字。しかし、長命縷 (ちょうめいる) じゃ、続命縷 (しょくめいる) じゃ、と言われても、だからそれはなんなんだ。と海に向かって叫びたくなります。
そういうわけで、早速リサーチの旅へ、どんぶらこ。どんぶらこ。
長命縷の「縷」は糸のことで、「長命縷」や「続命縷」とは、読んで字のごとく「長い命の糸」「続く命の糸」、つまり長寿を願う糸のことです。
しかし、糸が実際にその人の命を延ばすものではないので、たとえばこれは、厄除けの「お守り」や、願掛けの「絵馬」、護身の「おふだ」といったようなたぐいの「呪物」だと言えます。
後漢 (25 - 220 年) の応劭 (おうしょう、生没年未詳) が書いた風俗通義や、中国の荆楚の年中行事を記録した荆楚歳時記 (6世紀半ばごろ成立) に、長命縷についての説明があります。
読下し :
五綵 (ごさい) の絲 (きぬいと) を以て臂 (ひじ) に繋 (か) け、名づけて辟兵と曰う。
人をして瘟 (おん) を病まざらしむ。
(参考文献 :『荆楚歳時記』守屋美都雄 訳注. 平凡社, 1978.)
「瘟」とは流行病や伝染病のことです。「辟」は避けるの意味で、「兵」は兵器のことです。
五綵の糸を肘に掛ければ、流行病にかからず、戦争に巻き込まれない。家内安全。無病息災。というようなことのようです。
五色の糸をもっとくわしく
長命縷にはたくさんの別名があります。その別名の中には、よく見ると「縷 (る) 」以外の文字が使われているものもかなりあります。
そこで、こりゃぁいったいどういう意味なんだろう。と、ちょいと辞典で調べてみました。
実際のモノが、字義通りのものなのかは、わかりません。
百索、寿索、などと使われています。
「索」は、細い繊維や紐、ロープを指します。
五彩繒、辟兵繒、などと使われています。
「繒」は絹織物のことです。
平安末期から鎌倉前期の公卿、九条兼実 (くじょうかねさね) の書いた日記「玉葉」に、「続命の一縷」なるものが登場します。 仏教でいう「五色」が、陰陽五行説の「五色」と、どんな関わりがあるのかさっぱりわかりませんが、ここでいう「続命の一縷」は、おそらく続命縷と関係があるんじゃぁないかと、推測します。
注釈 :
続命 (ノ) (乃) 縷:
「薬師如来を拝し、燃灯し誦経して延命を祈願するための五色の続命の幡 (はた) 。」
(参考文献 :『雲州往来 享禄本 本文』三保忠夫, 三保サト子 編. 和泉書院, 1997.)
長命縷の由来について、伝説があります。
最初に登場してもらった「風俗通議」の引用文に、「又曰 亦因屈原」とあります。
「屈原 (くつげん) 」は実在の人物で、紀元前 340 - 278 年 戦国時代の、楚の政治家、詩人です。
懐王に仕えましたが、
次の頃襄 (けいじょう) 王の時に讒言 (ざんげん) によって追放され、放浪の果てに、汨羅 (べきら : 中国湖南省北東部を流れる川) で、身を投じて、自害しました(1)。
端午の節句でちまきを作って食べたり、龍舟で競争したりする風習 (または端午の起源) は、その屈原に因むという伝説があるのですが、
そのお話の中に長命縷っぽいものが出てきます。
日本語訳 (2):
龍朔元年 (661 年) 五月五日、高宗が五月五日の由来を質問したところ、
許敬宗は「続斎諧記」に云うとして、屈原、五月五日を以て汨羅に投じ死す。楚の人これを哀れみ、
此の日に至る毎 (ごと) に竹筒を以て米を貯え水に投じて之をまつる。
漢の建武中 (25 - 55 年) 、長沙の区回 (おうかい) 、
白日に忽 (たちま) ちに一士に見 (まみ) ゆ。 (士人) 自ら楚の三閭大夫と称す。
区回に謂いて曰く。
常に遺す所、多く蛟龍の窃 (ひそ) む所となる。
今もし允 (まこと) に恵むんば練 (楝 ?) 樹の葉を以て筒を塞ぎ、并 (あわ) せて五采絲をもて之を縛るべし。
則ち敢えて食らわず。今、俗人、五月五日に粽 (ちまき) を作り并せて五采絲及び楝葉を帯びるは、皆な汨羅の遺風なり。
「蛟龍」なんかが出てきちゃうところが伝説っぽいところです。
まぁ、五綵絲を身に帯びる風習は、かなーり昔からあったっちゅうことなんだと思います。
中国では、屈原伝説が主流ですが、実はもうひとつ伝説があります (高辛氏の子の伝説。もちろん中国のお話) 。日本の文献では、屈原のお話だけを載せているものと、両方を紹介しているものがあるようです。
續⿑諧記云。屈原 五月五日 自投二汨羅一而死。 楚人哀レ之。毎レ至二此日一輙以二竹筒一貯レ米。 投レ水祭レ之。 (中略) 荆楚記云。 民斬二新竹筍一爲レ首。 梭楝葉挿レ頭。 五綵縷 投レ江。 以爲レ避二火厄一。 士女或取二楝葉一挿頭。 綵絲総繋レ臂。 謂レ爲二長命一。 皆連二楝葉之玉幷莖黏一。 褁而投二羅水之中一祭レ之。 (参考文献 :『群書類従 第六輯 律令部 公事部』塙保己一 編. 続群書類従完成会, 1932.)
注釈 :
「高辛氏云々」この事、年中行事秘抄の文によりてかけりと見ゆ、集釋に本據確ならずといへり、「蛟龍」の蛟は、漢籍に魚身にして蛇尾と註せり、「屈原云々」は、續斎諧記に見えたること、「汨羅」は川の名。
物語調で読むなら、こちら。
屈原の伝説は、紀元前 340 - 278 年頃に長命縷が生まれた事を語っています。が、真偽はナゾ。伝説をそのまま信じていいのか迷うところです。
長命縷、または五色の糸についての実際の古い記録については、ふらふらと探し求めてさすらった結果、今のところ (2012 年 5 月現在) 、紀元後の文献ですが「風俗通儀」、「西京雑記」などをゲットしました。
書きおろし文 : (最初の一文のみ)
宣帝 (せんてい) 郡邸 (ぐんてい) の獄 (ごく) に
收繫 (しゅうけい) せらるるとき、臂上 (ひじょう) に
猶 (な) ほ史良娣 (しりょうてい) の
合采婉轉 (ごうさいえんてん) の絲繩 (しじょう) を帶 (お) び、
身毒國 (けんどくこく) の
寶鏡 (ほうきょう) 一枚 (いちまい) 、
大 (おお) いさは
八銖錢 (はっしゅせん) の如 (ごと) きを繋 (か) く。
現代語訳 :
宣帝 (せんてい、前 73 - 前 49 ) は (幼い頃) 郡邸の獄に囚われていたことがありましたが、その間もずっと腕に史良娣 (しりょてい) から贈られた
五色の組紐を腕につけて、八銖錢ほどの大きさのインドの宝鏡一枚 (その組紐に下げて) 掛けていました。
端午の風習が伝わった国は、朝鮮半島、台湾、ベトナム、日本、などがあります。じゃぁ、長命縷の風習も伝わったのかなぁとナゾが生まれます。
日本には伝わりました。台湾の文献からも「長命縷」の文字を見る事ができます。
朝鮮半島はどうかというと、どうやら韓国にはその風習があったようです。
文献を出したいのですが、残念ながら Mio さんはハングル文字が読めないので、あっさりあきらめたようです。 (中国語も読めまへんが)
韓国ドラマ「太陽を抱いた月 (2012 年)」のサウンドトラックに、「長命縷」という曲が収録されています。
Mio さんが確たる実証を持ち帰るまで、とりあえず、これで。
ベトナムはどうかというと、こちらはさっぱりわかりません。目下調査中です。
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長命縷の風習は、現在の中国でも、ふつーに行われているようです。
端午の節句に手首に組紐の飾りをつけます。 (中国の端午の節句は旧暦で行います)
と言っても、長命縷も日本の薬玉とおなじようにどんどん進化して、五色の糸で作られたものだけではないようです。
たとえば、五色じゃなくて、すんげーカラフルだとか。 (ミサンガに似てるような。似てないような)
絲ではなく、鎖(注8)だとか。
端午節 / 満蒙の風物
面白いのは、この日子供達は晴衣をきて胸や腰のあたりに五色の糸で飾りをつけたり、きれいな小袋や小さな人形をさげたりして、よろこんで遊んでゐることです。
これを健符といつて惡病よけのしるしです。昔は女の兒 (こ) は紅糸の毛糸で小さな箒をつくり、紅白の布でこれを結んで髪にさしたり、
また五色の糸で、虎やむかでの形をこしらへて簪として髪にさしたりしました。
男の兒 (こ) は五色の布で小猿をこしらへて、やはり頭につけたりします。
(参考文献 :『東亜満州文庫』石森延男 編. 修文館, 1939.)
五色の糸で虫を作ることは、平安時代の書簡文例集「雲州消息 (明衡往来、雲州往来、明衡消息とも。藤原明衡著。成立年代未詳)」にも出てきます。
レポート : 2012年 5月 3日
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