薬玉を辞典で調べると解説に並ぶ「長命縷」という文字。しかし、長命縷 (ちょうめいる) じゃ、続命縷 (しょくめいる) じゃ、と言われても、だからそれはなんなんだ。と海に向かって叫びたくなります。
そういうわけで、早速リサーチの旅へ、どんぶらこ。どんぶらこ。

長命縷の「縷」は糸のことで、「長命縷」や「続命縷」とは、読んで字のごとく「長い命の糸」「続く命の糸」、つまり長寿を願う糸のことです。
しかし、糸が実際にその人の命を延ばすものではないので、たとえばこれは、厄除けの「お守り」や、願掛けの「絵馬」、護身の「おふだ」といったようなたぐいの「呪物」だと言えます。

後漢 (25 - 220 年) の応劭 (おうしょう、生没年未詳) が書いた風俗通義や、中国の荆楚の年中行事を記録した荆楚歳時記 (6世紀半ばごろ成立) に、長命縷についての説明があります。

風俗通義 (後漢の応劭 (おうしょう : 153 - 196 年頃) 著 / 成立年未詳 / 全 10 巻。事物の名称を明らかにした書)
五月五日 賜五色続命 俗説以益人命

五月五日 以五彩絲系臂 名長命縷 一名続命縷 一名辟兵繒 一名五色縷 一名朱索 辟兵及鬼 命人不病温 又曰 亦因屈原
荆楚歳時記 (宗懍 (そうりん) の撰、6世紀半ば頃成立 / 六朝時代の荆楚地方の年中行事や故事風俗の記録書)
以五彩絲系臂 名曰辟兵 令人不病瘟

読下し :
五綵 (ごさい) の絲 (きぬいと) を以て臂 (ひじ) に繋 (か) け、名づけて辟兵と曰う。 人をして瘟 (おん) を病まざらしむ。
(参考文献 :『荆楚歳時記』守屋美都雄 訳注. 平凡社, 1978.)

「瘟」とは流行病や伝染病のことです。「辟」は避けるの意味で、「兵」は兵器のことです。
五綵の糸を肘に掛ければ、流行病にかからず、戦争に巻き込まれない。家内安全。無病息災。というようなことのようです。
五色の糸をもっとくわしく 薬玉の五色の糸 なぜ「薬玉」が必要だったのか

長命縷にはたくさんの別名があります。その別名の中には、よく見ると「縷 (る) 」以外の文字が使われているものもかなりあります。
そこで、こりゃぁいったいどういう意味なんだろう。と、ちょいと辞典で調べてみました。 実際のモノが、字義通りのものなのかは、わかりません。 薬玉の別名

「縷」系

「縷」
長命縷、続命縷、五色縷、などと使われています。
「縷」は細くて長い糸です。「一縷 (いちる) の望み」と言えば、細い糸のようにわずかな望みを言います。
「絲」
続命絲、五色絲、靈絲、綵絲、などと使われています。
「絲」は「生糸」のことです。「蜘蛛絲」と言えば、クモの糸のこと。
「線」
五色線、五彩線、端午線、などと使われています。
「線」は 糸、針金、コードのことです。日本語でも「ピアノ線」とか「導火線」などと使います。

「索」系

百索、寿索、などと使われています。
「索」は、細い繊維や紐、ロープを指します。

「繒」系

五彩繒、辟兵繒、などと使われています。
「繒」は絹織物のことです。

続命縷の亜型

平安末期から鎌倉前期の公卿、九条兼実 (くじょうかねさね) の書いた日記「玉葉」に、「続命の一縷」なるものが登場します。 仏教でいう「五色」が、陰陽五行説の「五色」と、どんな関わりがあるのかさっぱりわかりませんが、ここでいう「続命の一縷」は、おそらく続命縷と関係があるんじゃぁないかと、推測します。

玉葉 (九条兼実 (くじょうかねざね) 著 / 1164 - 1203 年 / 平安末期の日記)
元暦元年 (1184 年) 九月
「上大臣及兵仗之表、」 十八日、 表草案
(中略) 早賜羽衞備事惟殊常、 彌爲非分、随身兵仗宣 歸歟、然則、收王言之如絲、 更賜續命之一縷、 述臣心之匪一レ席関臥不死之床、 不懇欵優懼之至、慎拜表陳請以聞、 臣誠惶誠恐、頓首々々、死罪々々、謹言、
元暦元年九月 ␣ 日
從一位行右大臣 藤原朝臣上表 (参考文献 : 藤原兼実『玉葉 、一名 玉海』国書刊行会 校. 図書刊行会, 1907.)

注釈 :
続命 (ノ) (乃) 縷:
「薬師如来を拝し、燃灯し誦経して延命を祈願するための五色の続命の幡 (はた) 。」
(参考文献 :『雲州往来 享禄本 本文』三保忠夫, 三保サト子 編. 和泉書院, 1997.)

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長命縷の由来について、伝説があります。

最初に登場してもらった「風俗通議」の引用文に、「又曰 亦因屈原」とあります。
「屈原 (くつげん) 」は実在の人物で、紀元前 340 - 278 年 戦国時代の、楚の政治家、詩人です。
懐王に仕えましたが、 次の頃襄 (けいじょう) 王の時に讒言 (ざんげん) によって追放され、放浪の果てに、汨羅 (べきら : 中国湖南省北東部を流れる川) で、身を投じて、自害しました(1)

端午の節句でちまきを作って食べたり、龍舟で競争したりする風習 (または端午の起源) は、その屈原に因むという伝説があるのですが、 そのお話の中に長命縷っぽいものが出てきます。

中国の文献より

続斎諧記 (梁の呉均 (469~520 年) 撰 / 成立年未詳 / 怪異小説集)
屈原五月五曰投汨羅(注1)水 楚人哀之 至此曰 以竹筒子貯米投水以祭之 漢建武中 長沙区曲忽見一士人 自云三閭大夫(注2) 謂曲曰、 聞君当見祭 甚善 常年爲蛟龍所窃 今若有惠 当以楝(注3)叶塞其上 以彩絲纏之 此二物 蛟龍(注4)所憚
曲依其言 今五月五曰作粽 並帶楝叶 五花絲 遺風也
唐会要 (王溥 (922年 - 982年) の撰 / 961年成立 / 経済や風俗をあらわした歴史書)
龍朔元年五月五日 上謂侍臣曰 五月五日元爲何事
許敬宗對曰 続斎諧記云 屈原以五月五日投汨羅而死 楚人哀之 每至此日 以竹筒貯米投水祭之。
漢建武中 長沙区回 白日忽見一士人 自称楚三閭大夫 謂区回曰 常所遺 多爲蛟龍所窃 今若允惠 可以練樹叶塞筒 并五采絲縛之 則不敢食矣
今俗人五月五日作粽 并帶五采絲及楝叶 皆汨羅遺風

日本語訳 (2):
龍朔元年 (661 年) 五月五日、高宗が五月五日の由来を質問したところ、
許敬宗は「続斎諧記」に云うとして、屈原、五月五日を以て汨羅に投じ死す。楚の人これを哀れみ、 此の日に至る毎 (ごと) に竹筒を以て米を貯え水に投じて之をまつる。
漢の建武中 (25 - 55 年) 、長沙の区回 (おうかい) 、 白日に忽 (たちま) ちに一士に見 (まみ) ゆ。 (士人) 自ら楚の三閭大夫と称す。 区回に謂いて曰く。
常に遺す所、多く蛟龍の窃 (ひそ) む所となる。 今もし允 (まこと) に恵むんば練 (楝 ?) 樹の葉を以て筒を塞ぎ、并 (あわ) せて五采絲をもて之を縛るべし。
則ち敢えて食らわず。今、俗人、五月五日に粽 (ちまき) を作り并せて五采絲及び楝葉を帯びるは、皆な汨羅の遺風なり。

「蛟龍」なんかが出てきちゃうところが伝説っぽいところです。
まぁ、五綵絲を身に帯びる風習は、かなーり昔からあったっちゅうことなんだと思います。

日本の文献より

中国では、屈原伝説が主流ですが、実はもうひとつ伝説があります (高辛氏の子の伝説。もちろん中国のお話) 。日本の文献では、屈原のお話だけを載せているものと、両方を紹介しているものがあるようです。

本朝月令 (惟宗 公方 (これむねのきんかた) 著かも ? / 930~946 年頃成立と見られているけど、色んな説があるらしい / もと 4 巻または 6 巻。平安中期の有職書)
この、本朝月令という本は、原本のほとんどが散逸してしまっているのですが、残存している 1 巻 (巻二) に、四月、五月、六月が記されています。すばらしい。五月の節會事で「斎諧記」と「荆楚記」の引用があります。

續⿑諧記云。屈原 五月五日 自投汨羅而死。 楚人哀之。毎此日輙以竹筒米。 投水祭之。 (中略) 荆楚記云。 民斬新竹筍首。 梭楝葉挿頭。 五綵縷江。 以爲火厄。 士女或取楝葉挿頭。 綵絲総繋臂。 謂長命。 皆連楝葉之玉幷莖黏。 褁而投羅水之中之。 (参考文献 :『群書類従 第六輯 律令部 公事部』塙保己一 編. 続群書類従完成会, 1932.)

公事根源 (一条兼良 (いちじょうかねよし (またはかねら)) 著 / 1423 年頃成立 / 室町中期の有職故実書)
八十六 端午
けふ粽 (チマキ) を食ふ事あり。 昔高辛氏 (カウシンシ) の惡子、五月五日に船に乗りて海を渡りし時、暴風俄に吹きて浪に沈みけるが、水神となりて常に人を惱ます。 ある人五色の糸をもて、粽をして海中に投げ入れしかば、五色の蛟龍となる。 それよりして海神、人をなやまさず、漕ぎ行く舟も災難にあはずと申し傳 (つた) へたり。 又は屈原が汨羅 (ベキラ) に沈み、魚腹に葬せしを、祭りし時の供物なりとも申すにや。

注釈 :
「高辛氏云々」この事、年中行事秘抄の文によりてかけりと見ゆ、集釋に本據確ならずといへり、「蛟龍」の蛟は、漢籍に魚身にして蛇尾と註せり、「屈原云々」は、續斎諧記に見えたること、「汨羅」は川の名。

(参考文献 : 一条 兼良『公事根源新釈 下巻』関根正直 校註. 六合館, 1903.)

物語調で読むなら、こちら。
端午伝説

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屈原の伝説は、紀元前 340 - 278 年頃に長命縷が生まれた事を語っています。が、真偽はナゾ。伝説をそのまま信じていいのか迷うところです。
長命縷、または五色の糸についての実際の古い記録については、ふらふらと探し求めてさすらった結果、今のところ (2012 年 5 月現在) 、紀元後の文献ですが「風俗通儀」、「西京雑記」などをゲットしました。

風俗通儀 (後漢の応劭 (おうしょう : 153 - 196 年頃) 著 / 成立年未詳 / 全 10 巻。事物の名称を明らかにした書)
冒頭に登場してもらった風俗通儀は、成立年は未詳ですが、著者応劭の生没年から、153 - 196 年頃には、長命縷が存在していたということになると思います。
重複するので、風俗通儀の内容は省略します。
西京雑記 (せいけいざっき : 著者未詳 / 成立年未詳、両晋 · 南北朝時期にまとめられたそうです /前漢時代 (前 202 - 後 8 年) の雑事を記録)
西京雑記の著者は、四説あるそうですが、いずれも決め手が無いのだとか(注5)。 タイトルにある「西京」とは、前漢の首都、長安 (陝西 (せんせい) 省西安市) のことです。 この本は、その西京について、雑多な逸話などを集めた書。 掲載内容を信じるとすれば、紀元前に五色の糸の風習があったということになる。かもしれません。
宣帝被收繫郡邸獄(注6)。臂上猶帶史良娣合采婉轉絲繩(注7)。繫身毒國寶鏡一枚 大如八銖錢。 舊傳此鏡見妖魅。得佩之者為天神所福。故宣帝從危獲濟。及即大位。每持此鏡感咽移辰。常以琥珀笥盛之。緘以戚里織成錦。一曰斜文錦。帝崩不知所在。

書きおろし文 : (最初の一文のみ)
宣帝 (せんてい) 郡邸 (ぐんてい) の獄 (ごく) に 收繫 (しゅうけい) せらるるとき、臂上 (ひじょう) に 猶 (な) ほ史良娣 (しりょうてい) の 合采婉轉 (ごうさいえんてん) の絲繩 (しじょう) を帶 (お) び、 身毒國 (けんどくこく) の 寶鏡 (ほうきょう) 一枚 (いちまい) 、 大 (おお) いさは 八銖錢 (はっしゅせん) の如 (ごと) きを繋 (か) く。

現代語訳 :
宣帝 (せんてい、前 73 - 前 49 ) は (幼い頃) 郡邸の獄に囚われていたことがありましたが、その間もずっと腕に史良娣 (しりょてい) から贈られた 五色の組紐を腕につけて、八銖錢ほどの大きさのインドの宝鏡一枚 (その組紐に下げて) 掛けていました。

(参考文献 : 竹田 晃、梶村永、高芝麻子、山崎藍.『中国古典小説選 1』明治書院, 2007.)
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端午の風習が伝わった国は、朝鮮半島、台湾、ベトナム、日本、などがあります。じゃぁ、長命縷の風習も伝わったのかなぁとナゾが生まれます。
日本には伝わりました。台湾の文献からも「長命縷」の文字を見る事ができます。

金門志 (林焜熿纂輯、子豪 続修 : 1836年成立。台湾の歴史書)
作粽相餽遺。小兒戴繭虎作彩勝、臂繫五色絲曰長命縷。婦女揀香草蒜瓣剪 綵象小虎、貼艾簪之。飲雄黃酒、以酒擦兒頂鼻、噀房壁床下、以去五毒。沐蘭湯、採百草搗藥。

朝鮮半島はどうかというと、どうやら韓国にはその風習があったようです。
文献を出したいのですが、残念ながら Mio さんはハングル文字が読めないので、あっさりあきらめたようです。 (中国語も読めまへんが)

韓国ドラマ「太陽を抱いた月 (2012 年)」のサウンドトラックに、「長命縷」という曲が収録されています。
Mio さんが確たる実証を持ち帰るまで、とりあえず、これで。

ベトナムはどうかというと、こちらはさっぱりわかりません。目下調査中です。

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長命縷の風習は、現在の中国でも、ふつーに行われているようです。 端午の節句に手首に組紐の飾りをつけます。 (中国の端午の節句は旧暦で行います) と言っても、長命縷も日本の薬玉とおなじようにどんどん進化して、五色の糸で作られたものだけではないようです。
たとえば、五色じゃなくて、すんげーカラフルだとか。 (ミサンガに似てるような。似てないような)
絲ではなく、鎖(注8)だとか。

端午節 / 満蒙の風物
面白いのは、この日子供達は晴衣をきて胸や腰のあたりに五色の糸で飾りをつけたり、きれいな小袋や小さな人形をさげたりして、よろこんで遊んでゐることです。 これを健符といつて惡病よけのしるしです。昔は女の兒 (こ) は紅糸の毛糸で小さな箒をつくり、紅白の布でこれを結んで髪にさしたり、 また五色の糸で、虎やむかでの形をこしらへて簪として髪にさしたりしました。
男の兒 (こ) は五色の布で小猿をこしらへて、やはり頭につけたりします。 (参考文献 :『東亜満州文庫』石森延男 編. 修文館, 1939.)

五色の糸で虫を作ることは、平安時代の書簡文例集「雲州消息 (明衡往来、雲州往来、明衡消息とも。藤原明衡著。成立年代未詳)」にも出てきます。

注釈 / 参考文献

注釈

参考文献

  1. 3. 4.『大辞泉』小学館,
  2. 『荆楚歳時記』守屋美都雄 訳注. 平凡社, 1978.
  3. 6. 竹田 晃、梶村永、高芝麻子、山崎藍.『中国古典小説選 1』明治書院, 2007.

レポート : 2012年 5月 3日

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