卯杖 (うづえ : 御杖、剛卯杖、初卯杖、祝卯杖などとも) 、卯槌 (うづち) は、古代、お正月の始めの卯 (う) の日、邪気、穢れを払うために用いられたアイテムです。
興味深いのは、この卯杖、卯槌に、薬玉と同じように五色の糸が用いられていることです。そして、薬玉と同じように贈答の習慣もあったと言われています。
薬玉によく似た、卯杖と卯槌。彼らのことをもっとくわしく知りべく、リサーチ隊の出動です。

卯杖、卯槌は、中国、漢朝の剛卯杖という風習が日本に伝わり、民間で行われていた「祝棒 (いわいぼう)」の呪術と混じったものと言われています(1)。 文献では、日本書紀 689 年の記録が最も古いとされています。

日本書紀 (にほんしょき : 舎人親王 (とねりしんのう) らの編 / 720 年成立 / 六国史の第一。奈良時代の歴史書。30 巻)
持統天皇 三年
(乙丑) 三年春 正月甲寅、 天皇朝 (マヰコシム) 萬國 (クニ〳ヲ) 于前殿、乙卯、大學寮 (オホツカサノ) (ミツエ) 八十枚 (参考文献 :『六国史 巻 2 日本書紀 巻 上下』佐伯有義 編. 朝日新聞社, 1940.)
折口信夫全集 (おりぐちしのぶぜんしゅう : 折口信夫 著 / 1972 年 / 折口信夫氏は民俗学者、国文学者)
正月に使用するうづゑ(卯杖)・うづち(卯槌)などゝ言ふものがある。 形は支那から来て居るが、其元の信仰は日本のものである。うつには、意味がある。 捨てるも「うつ」である。うつちやる・なげうつも、捨てる事である。古い処では「うつ」は、放擲すると言ふ事に使用されて居る。 だから、私は、卯杖・卯槌は、地べたのものを追ひ払ふ為に、たゝくものだと考へて居る。 土を敲くのは、土の精霊を呼び醒す事であり、土地の精霊を追ひ払ふ事とも考へて居た。 (参考文献 :折口信夫『折口信夫全集 第 2 巻 古代研究』折口博士記念古代研究所 編. 中央公論社, 1972.)

辞典類を参考に(2)、卯杖と卯槌の形を観察してみます。

次のテーマの卯杖の儀式で取り上げている、 江家次第には、その形について詳細が記されています。

卯杖

曾波木 (そばき) 、柊 (ひいらぎ) 、棗 (なつめ) 、毛保許 (むぼこ) 、桃、梅、椿、栢 (かしわ) 、柳、木瓜 (ぼけ) 、榠樝 (からぼけ) 、松などの木 (陰陽師所謂の陽性の木、だそうです(3)) を、5 尺 3 寸 (約 1.60606061 メートル)(注1)に切って、ひとつ、またはふたつ、またはみっつずつ、五色の糸で巻いたもの。

卯槌

桃の木を長さ三寸、幅一寸ほどに切って、縦に穴をあけて、五色の組紐を通して、垂れたもの。組紐は長さは五尺。十筋か十五筋だそうです。この形は、中国の剛卯を模されたものだと言われています。晝の御座の西南の角の懸角の柱に掛けられました。

古今要覧稿 (こきんようらんこう : 屋代弘賢 (やしろひろかた、1758 - 1841 年) 著 / 1821 - 1842 年成立 / 江戸後期の類書。560 巻)
按に 桃木を用ひて 四方に刋 (けず) るへしとみえたるによれは 漢の剛卯を模せし物なる事 明らけし 剛卯は 漢書の注に 服虔曰 長三寸 廣一寸 四方或用 玉或用金或用桃 とみえ 後漢書に 中穿以孔以五綵絲 縄貫之云々 と見えたり 是によれは 江次第の 槌末出五尺計 といへる出の字の上に組の字落たるなるへし 槌とさすものは 剛卯にて 長さ三寸はかりの物 なるへけれは その末に 五色の組の長さ 五尺はかりなるを 垂下すなるへし 又後漢書を按に 四方 六角 八角 圖者 と見えたれは 丸く刋れるも 據なきにはあらさるなり (参考文献 :『古今要覧稿 第1巻 神祇部 姓氏部 時令部』屋代弘賢 編. 国書刊行会 校. 国書刊行会, 1907.)

バリエーション

実際に贈答される卯槌、卯杖には、薬玉のように色々なアレンジもあったようです。

枕草子 (まくらのそうし : 清少 納言 著 / 1000 年頃の成立 / 平安時代の随筆)
かたつかたなれば きしめくに、おどろかせ給ひて、「などさはする。」との給はすれば、「斎院より御文のさふらはんには、いかでかいそぎあげ侍らざらん。」と申すに「げにかかりけるかな。」とて、おきさせ給へり。 御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる卯槌二つを、うづゑのさまに かしらつゝみなどして、山たちばな、ひかげ、山すげなどうつくしげにかざりて、 御文はなし。「たゞなるやうあらんやは。」とて、御覧ずれば、うづちのかしら つゝみたる ちひさき紙に、 山とよむ 斧のひゞきを たづぬれば いはひの杖の 音にぞありける 御返しかゝせ給ふほども、いとめでたし。
  • 現代語訳 その1 :
    一人で一方ばかり上げるのだから、ぎし〳音がするので、お目覺になつて、宮「なぜ、戸などあけるのか」と彼仰る。 清「斎院から、御文が參りましたのですもの、どうしてゆつくり致して居 (おら) れませう」と申すと、 宮「どうりで余 (あんま) り 疾いと思つた」と、お起きに成た。 御文をおあけになると、五寸位の卯槌二つを、卯杖のやうに、先の方を包んだりして、山橘だの、ひかげだの、やますげなどを きれいに飾つて、 (あるだけで) 別に御文はついて居ない。御文のないわけはないと、ご覧になると、卯杖の先を包んだ小さい紙に、 山とよむ 斧のひゞきを たづぬれば いはひの杖の 音にぞありける
    (山にこだまする 斧のひゞきを、何だと思つてたづねたら、祝ひの杖をつく音だつた)
    とあつた。御返しをお書きになる御様子も、誠によい。 (参考文献 :『枕草紙 日訳新註』小林栄子 訳注. 言海書房, 1935.)
  • 現代語訳 その2 :
    片方だけを持つて上げるから、格子がぎし〳といふので、中宮はお眼を覺まされて、「なぜそんな事をするのです。」とおつしやるから、「斎院から御文が參りましては、なんで急いで上げずに居られませう。」と申し上げると、「なる程 さういふ事であつたか。」と仰せになつてお起きになつた。 御文をお披きになると、五寸位な卯槌二つを、卯杖の格好に頭の方を紙で包みなどして、山橘や日陰の葛や山菅などで美しげに飾つて、御文は見えない。「無い筈があらうか。」と仰せになつて御覧なさると、卯槌の頭を包んだ小さい紙に、 とよむ 斧のひゞきを たづぬれば いはひの杖の 音にぞありける といふ歌が書いてある。 中宮が御返歌をお書きになる様子も甚だうるはしい。 (参考文献 :『枕草紙新釈 校定』永井一孝 校. 三星社, 1920.)
古今要覧稿 (こきんようらんこう : 屋代弘賢 (やしろひろかた、1758 - 1841 年) 著 / 1821 - 1842 年成立 / 江戸後期の類書。560 巻)
江戸時代の類書、古今要覧稿は上記の枕草子を引用して、卯槌の長さについて記しています。
按に 后宮の御方へ斎院より をくらせ給ひたるなり こゝに五寸はかりなるとかけるは みな〳より いと長きやうなれと これは かしらを つゝまん料に わさと長く作られしなるへし 元より巻の剛卯寸法 まち〳なること 淳煕敕編 古玉圖譜(注2)に見えたれは 卯槌も 好に任て 長短有へきなり (参考文献 :『古今要覧稿 第1巻 神祇部 姓氏部 時令部』屋代弘賢 編. 国書刊行会 校. 国書刊行会, 1907.)

平安時代、卯杖は六衛府、大舎人が献上し、卯槌は諸衛府、糸所などが献上しました。しかし、この儀式は建武年間以降、音沙汰が無くなります。おそらく、廃れたんじゃぁなかろうかと思われます。

儀式の記録

年中行事御障子文 (ねんじゅうぎょうじおしょうじぶみ : 藤原基経 献上 / 885 年 / 清涼殿の弘廂 (ひろびさし) にあった年中行事の名目を両面に書いた衝立障子)
上卯日。獻御杖事。
(参考文献 :"年中行事御障子文"『續群書類從 第10輯ノ上 公事部 1』塙 保己一 編. 続群書類従完成会, 1926.)
江家次第 (ごうけしだい : 大江匡房 (おおえのまさふさ) 著 / 1111 年成立 / 平安後期の有職故実書。21巻)
卯杖事 正月上卯
上古有御南殿皇太子參上儀、近代不
春宮被卯杖件案天慶九年以蘇芳之、 大進着腋陣藏人之、藏人舁之、經神仙無名明義仙華等門、自長橋上進之南廊小板敷祿、近例立晝御座孫廂 次大舎人進御杖六十束或云、曾波 (ソハ) 木二束、比比良木、牟保許、棗、桃、栢各六束、已上二株爲束、燒椿十六束、、皮椿四束、 黑木、已上四株爲束、此中有五大杖、 以紙褁其頭、又半分以下同以之、
内侍所、女官傳取入仙華門、 經長橋南廊小板敷, 内侍取之立夜御殿南戸内面東西壁下近代令女官立一レ之失也、 件案掃部 (カモン) 之、次左右兵衛府進御杖、 其儀同上、但其木榠櫨 (メイシヤ、カラナシ) 三束、 一株爲束、 木瓜 (ホケ、クハ) 三束、比々良木三束、牟保已三束、黑木三束、桃木三束、梅木二束、 已上二株爲束、椿六束、四株爲、 掃部女官取之、立晝御座御帳四角、 次絲所進卯槌絲所式者可机歟、 其料絲卯槌、御机組、幷縫覆敷料十兩二分、 白三年一請參河糸組料七兩二分、丹波糸已上申請納殿、 藏人取之、結付晝御帳懸角柱 (西南柱也) 、 副立細木柱、槌未出五尺許可 桃木、又四方 (ヨハウ) ニ削、 近代丸也失也歟、次作物 (ツクモ) 所進卯杖、自 去年十二月十八日、彼所別當藏人始行事所作之其料物、成内蔵請奏 々下、羅、蝎、紙、墨、雜丹、金銀絲一絇等自納殿之、 案二脚之上置小臺、其上置洲濱、 其上作奇岩恠石嘉樹芳草白砂緣水、其中作御生氣方獸形、 令卯杖、生氣在 (ミナミ) 馬、生氣在坤作未、 不猿、生氣在兌作鷄、生氣在 乾作猪、不犬、 生氣在 (キタ) 鼠、 尋養者方馬、 生氣在艮作牛不虎、 生氣在地震 (ヒガシ) 兎、生氣在巽作龍 不 (ミ) 、 行事藏人以下舁之、自仙華門舁上立晝御座廣庇、案等返給所 (ニ) 他案返内侍所、本所各請之、 造物等或有御前召、若當節會日、大舎人寮兵衛等卯杖立外辨、内辨奏事由、御出以前付内侍所、東宮卯杖又當節會者、節會以前前進之、近代必不然、 又案弘仁式、立南殿簀子敷云々、 若准之雖清涼殿 簀子敷歟、但清涼殿殿者有廣庇、仍可南殿歟、可尋、
(参考文献 :『改訂増補 故実叢書 二巻 江家次第』 故実叢書編集部 編. 明治図書出版, 1993.)
年中行事抄 (ねんじゅうぎょうじしょう : 著者、成立年未詳 / 2 巻。または 4 巻とも。鎌倉時代の公事の行事を記した書)
上卯日。献御杖事。
去年十二月十八日。作物所請申料物。
東宮。大舎人。作物所。兵衞等献之。朔日七日若當卯者。混諸司奏。付内侍所。
持統天皇三年正月乙卯。大學寮獻杖八十枚。
仁壽二年正月己卯。諸衛府獻 ? (字がわかりまへん) 杖。逐精魅也。
天慶依雨無卯杖奏。
漢官儀云。正月卯。以桃枝作剛卯杖。厭鬼也。
漢書注服虔云。剛卯以正月卯日作佩之。長三寸。廣一寸四方。或用玉。或用金。或用桃。著革帶佩之。今有玉石者。銘其一面曰。 正月剛卯。
晋灼云。剛卯長一寸。廣五分。

同日。一院卯杖事。
同日。執柄家卯杖事。
(参考文献 :"年中行事抄"『續群書類從 第10輯ノ上 公事部 6』塙 保己一 編. 続群書類従完成会, 1926.)
建武年中行事 (後醍醐天皇 (ごだいごてんのう、1288 - 1339 年) 著 / 1334 成立 / 室町時代の有職故実書)
卯の日にあたれば、卯杖の奏あり。六府杖をたてまつる。つくも所、生氣の方の獸のすがたを作りて、卯杖をおはす。様々のつくりものあり。 臺盤所に奉る。中宮春宮おなじ。春宮より宮司を使にてたてまつらる。藏人祿をたまふ。六府にたてまつれる卯杖をとりて、 ひの御座の御帳、夜のおとゞの御帳、四のすみにたつるなり。 (参考文献 :『列聖全集 御撰集 6』列聖全集編纂会 編. 列聖全集編纂会, 1917.)

廃れた ?

古今要覧稿 (こきんようらんこう : 屋代弘賢 (やしろひろかた、1758 - 1841 年) 著 / 1821 - 1842 年成立 / 江戸後期の類書。560 巻)
この儀 建武の御字まては たしかに行はれたれとも いつよりや たえにけん 近代はきこえす (参考文献 :『古今要覧稿 第1巻 神祇部 姓氏部 時令部』屋代弘賢 編. 国書刊行会 校. 国書刊行会, 1907.)
建武年中行事注解
これも、後には行はれず、なりしと見えて、後花園帝は、中絕と注し給へり。
(参考文献 :和田英松『建武年中行事注解』明治書院, 1903.)

贈答の習慣

卯杖、卯槌の贈答の習慣は、平安時代の文学作品に多く登場します。その中のひとつ、源氏物語に登場する卯杖のシーンです。

源氏物語 (げんじものがたり : 紫式部 著 / 1001 - 年 / 平安中期の物語)
若君 (わかぎみ) の御前 (おまへ) にとて、卯槌 (うづち) (まゐ) らせ給ふ。おほきおまへの御覽 (ごらん) ぜざらむ 程 (ほと) に、御覽 (ごらん) ぜさせ給へとて。

現代語訳 :
若君様へこちらから卯槌 (うづち) を差し上げられます。そまつな品ですから奥様の御覧にならぬ時に差し上げてくださいと仰せになりました。

(参考文献 : 紫式部『源氏物語 第4』武笠三 校. 有朋堂書店. 1926.)
紫式部『全訳源氏物語 下巻』与謝野晶子 訳. 角川書店, 1972.)

乞巧奠 (きっこうでん) 、端午、卯杖の儀式は、現在はどこにも残っていません。 しかし、彼らのミームは間違いなく現在に引き継がれています。

七月七日、七夕の乞巧奠に用いられた五色の糸は、五色の短冊に姿を変え、現在はカラフルな短冊へと進化を果たし、生き残っています。 また、端午、五月五日の節会で朝廷から下賜された五色の糸の續命縷は、媒体を乗り換え、その形を大きく変えることで、自らの情報を現在に伝えました。

一方、五色の糸で飾られた卯杖、卯槌は、現在その姿をいくつかの神社で見る事ができます。贈答の習慣を神社に伝染させることで、彼らは生き残りを果たしたようです。
神社によっては、ほかの呪術、たとえば「かゆ杖(注3)」などと結びつき、現在に伝わるものもあります。

薬玉は、現在にも形が残りますが、端午の節会に飾られるという習慣がすでに絶えています。卯槌、卯杖の生き残り作戦は、自身が活躍する習俗そのものを進化させた、ダイナミックな術だったのだとはうなっています。

注釈と参考文献

注釈

参考文献

  1. 2.『世界大百科事典 第二版』平凡社, 2006.
  2. 本山桂川 著『信仰民俗誌』昭和書房, 1934.

レポート : 2012年 9月 22日

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