辞典類等に「中国から伝わった」とあるので、「何をいまさら」な 問いです。
が、
ちょっとこだわって、正確に表現したいと思います。
薬玉に関する一番古い記録は、奈良時代 (710 - 784 年) です。たとえば、その時代に薬玉が伝わったもんだと仮定した場合、
その頃の中国は「中国」っちゅう名前ではありませんでした。7 - 8 世紀頃の中国の名前は、
答え :
唐 (とう : 618 - 907 年)
薬玉は唐から伝わりました。
そう断言するのも薬玉が伝わったのは奈良時代という仮定で話を進めているからなのですが、それだけだとつまらないので、もうちょっと妄想に走ってみます。
もし、これが平安時代中頃だと仮定します。 (実際にはありえまへんが) 。そうすると、答えは、
答え :
唐 (とう : 618 - 907 年)
又は、
五代 (ごだい : 907 - 959 年)
又は、
宗 (そう : 960 - 1278 年)
平安時代は 391 年続きましたが、
その間に中国は「唐 (618 - 906 年)」から「五代 (907 - 959 年)」そして「宗 (960 - 1278 年)」へと変わります。
五代の時代だと中国は五つの王朝 (後梁、後唐、後晋、後漢、後周) と十国の地方政権に分かれています。すごいです。はたして、一体その中のどの国から伝わったのか、などと考えると、ちょっとややこしくて面白いかもしれません。
さて、もうひとつ。奈良時代より以前の飛鳥時代 (592 - 710 年頃) に薬玉が伝わっていた場合も妄想してみます。その場合、答えは、
答え :
随 (ずい : 589 - 611 年)
又は、
唐 (とう : 618 - 907 年)
その時代、中国は「随 (589 - 611 年)」から「唐」に変わりました。
(参考文献 :『漢字源』学研, 1988.)
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例えば、薬玉が奈良時代に伝わったと仮定した場合。
薬玉の風習が、唐から来た中国人によってもたらされたのか、それとも、唐にわたった日本人によってもたらされたのか、どちらかさっぱりわかりませんが、後者だと「"遣唐使" なんていうのもありかな」などと、頭の中でチリリリンとベルがなります。
さらに前の時代を仮定するなら「遣隋使」かな。などと再びベルがチリリリン。
しかし、実を言うと密かに思っているのが別にあります。
それは、仏教や陰陽五行説を日本にもたらした
「五経博士 (ごきょうはかせ) (注1) 」 です。
理由は簡単。しかも、安直。薬玉が陰陽五行説によるところの「呪物」だからです。
くわしくはこちら。
陰陽五行説を日本にもたらした五経博士が、陰陽道でいう五色という色の意味、そして、五色の糸のおまじないなんぞも伝えたんじゃなかろうかと思う訳です。
あくまで妄想。
ですが、もちろんこのまま暴走します。たとえば、五経博士が薬玉を伝えたとした場合、答えは、
答え :
百済 (くだら、ひゃくさい : 346 - 660 年)
五経博士が日本に来た記録は、513 年、継体天皇の時に百済からの来朝が始めで(注2)、602 年の推古天皇の時には百済の僧、観勒が陰陽道の書をもたらしたことが日本書紀、三代実録などにあります(注3)。
さて、レポートの前提は「薬玉は中国から伝わった」ですが、答えがこの「百済」だと最初の前提がひっくり返ります。百済は朝鮮半島に位置するからです。
なので、最初の前提は「薬玉は朝鮮から伝わった」となります。
まぁ、中国の風習や風俗、もろもろの事物が朝鮮経由で伝わる。というのは、さほど珍しくない事なのかもしれません。
長命縷の説明も「朝鮮経由で伝わった中国の風習」とすれば、 (Mio さんには) たいして違和感がないように思います。
いずれにしても、この五経博士論は、Mio さんの妄想の中。夢の底。現実の世界で形を作るには、まだまだリサーチが必要なようです。
日本と中国の正式な国交があったのは 1,500 年を超える歴史の中で、邪馬台国時代を除いて、4 世紀末から 5 世紀末までの倭の五王時代、7 世紀末からの遣隋使·遣唐使時代、15 世紀初めから 150 年ほどの日明貿易の時代、これで全てだそうです。
遣隋使は 600 年に始まり、4 回派遣され、遣唐使は 20 回くらい派遣されました。最後に派遣されたのは、894 年です。
しかし、遣唐使が廃止になった後も、日本と中国の間でさかんに交流があったとされています。
(参考文献 :東野治之『遣唐使』岩波書店, 2007.)
レポート : 2012年 11月 2日
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