朝廷が行う五日の節会では、薬玉を賜る儀式があります。
すこぶる素晴らしいことが書いてある続日本後紀に、またまた登場してもらいます。記事は、言わずと知れた (?) 仁明天皇 嘉祥二年 (849 年) 五月五日の条。

続日本後紀 (しょくにほんこうき : 藤原良房、藤原良相、伴善男 等撰 / 869 年成立 / 平安時代 (833 - 850 年) の歴史書、六国史の第四。20 巻)
戊午、天皇御武德殿、馬射、 六軍擁節、百寮侍座、有勑、命下二文矩等宴宣詔曰、 天皇 詔旨良万止勑命使人等聞給 五月五日 藥玉 酒人命長福有止奈毛 聞食、故是以藥玉賜、御酒賜波久止宣、 日暮乗輿還宮

読下し : 天皇 から 波久止宣まで
スメラガ オホミコト ラマト ノリ玉フ オホミコトヲ ツカヒビトラ キコシメシタマヘト ノリ玉ハク
サツキノ イツカノヒニ クスダマヲ オビテ サケノムヒトハ イノチナガク サキハヒアリ トナモ キコシメス
カレコゝヲモテ クスダマ タマヒ ミキタマハクト ノリ玉フ (参考文献 :『六国史 巻七』朝日新聞社, 1941.)

Mio さんによる鳥取弁訳 (1):
戊午 (つちのえ、うま)
天皇さんは武徳殿に行きなって、騎馬の射的を見んさった。六軍が旗を持ちなって、ようけ (鳥取弁 : たくさん) の役人さんたちは、座って待ちなった。文矩さん達に宴会に出なるように言いなって、詔をくだされた。
「天皇の詔旨 (おおみこと。天皇のお言葉) であると のたまう (宣ふ : 動詞の「の (宣) る」に「たま (給) う」の付いた「のりたまう」の音変化で、本来は、上位が下位に告げ知らせるの意 (『大辞泉』小学館)) け。 勅命を使者らちゃ、聞きんさいと のたまうが。
五月五日に薬玉を佩びて、酒を飲むと、命が延びて、福があると聞く。だけ、薬玉を賜い、酒も賜うと のたまうけ。」
日が暮れて、輿に乗って宮に帰んなった。

素晴らしいのは、「薬玉を身につけて酒を飲むと、命が延びて、福がある」というところで、こりゃぁ ぜひ実践しようじゃぁないか。などと調子良く話を進めたいところですが、おっと。残念ながらこのレポートの焦点はそこじゃぁありません。そのあとに続く「薬玉を賜い、酒を賜う」というところです。

はい。今回のナゾは、この五日の節会で、薬玉を誰に賜 (たま) った(注1)のか。です。

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朝廷から薬玉を賜うのは、五日の節会の儀式です。年中行事書などで五日の節会の解説を見るとだいたい似たような事がかいてあり、 群臣 (多くの臣下、諸臣) に賜ったとあります。

公事根源 (一条兼良 (いちじょうかねよし (または かねら)) 著 / 1423 頃成立 / 室町中期の有職故実書)
八十五 五日節會 天皇武徳殿に出御なりて宴會を行はれ、群臣に酒を給ふなり。内辨なども四節に同じ。 人々皆あやめの鬘をかく。日陰の鬘の如し。典藥寮あやめの御案をたてまつる。群臣に藥玉 (クスダマ) を賜ふ。 五色の絲をもてひぢにかくれば、惡鬼をはらふと申す本文侍るにや。 (参考文献 : 一条兼良『公事根源新釋下巻』関根正直 注釈. 六合館, 1903.)
案内者 (あんないしゃ : 中川 喜雲 (なかがわ きうん、1636 ?‐1705) 著 / 1662 年 / 秋田屋平左衞門 版行 / 江戸時代初期の年中行事書)
巻三 同五日
五日節會  主上武德殿に出御なりて宴會をおこなはせたまひ、羣臣に酒をたまふとなり、内辨なども、元日の節會 · 豐明などに同じきよし。 又典藥寮あやめの机をたてまつる、羣臣に藥玉をたまふ、五色の絲をもてひぢにかくれば、惡鬼をはらふとある本文侍るゆへにや。
賴政に あらぬもけふは ひきとりて あやめを軒の 妻にみるかな (参考文献 :『民間風俗年中行事 案内者』国書刊行会 編. 国書刊行会, 1916.)

しかし、群臣と言ってもかなーり大雑把すぎるので、もう少し詳しく追跡です。

皇太子以下参議以上

平安時代の儀式書を開くと、薬玉を賜ったのは、皇太子以下参議以上となっています。

内裏儀式 (だいりぎしき : 撰者、成立年未詳 / 平安前期の儀式書。 内裏儀式を基に補正したものが「内裏式」と考えられている)
漢女草収牧之内藏寮稱唯率數人更參入取菖蒲机 (イナシ) 退出有頃 藏人等各執續命縷此間謂藥玉賜參議以上佩之 (参考文献 :『改訂増補 故実叢書 31 巻 内裏式 · 内裏儀式疑義弁他』故実叢書編集部. 明治図書出版, 1993.)
儀式 (ぎしき : 撰者未詳 / 873 年 - 877 年 ? / 平安前期の宮廷儀式書。貞観儀式とも)
儀式 巻第八
女藏人等執續命縷 此間藥玉 皇太子以下參議以上 (参考文献 :『改訂増補 故実叢書 31 巻 内裏式 · 内裏儀式疑義弁他』故実叢書編集部. 明治図書出版, 1993.)
内裏式 (だいりしき : 藤原冬嗣 (ふじわら ふゆつぐ、775 - 826 年) ら七名の撰、 清原夏野 (きよはらの なつの、782 - 837 年) ら 改訂 / 821 年成立、833 年改訂 / 平安前期の有職故實書)
巻第七十九 内裏式中
女藏人等執續命縷此間謂藥玉皇太子已下參議已上 (参考文献 :『群書類従 第六輯 律令部 公事部』塙保己一 編纂. 続群書類従完成会, 1932.)

薬玉が贈られた記録

三代実録は、平安時代の歴史書です。この記録では、薬玉は親王、公卿に配られたとあります。また、お客さんの大使以下、 録事(注2)以上にも賜ったとあり、さらに品官(注3)以下には、菖蒲蘰(注4)を賜ったとあります。

また、九條殿記には天慶七年に行われた五日の節会で、続命縷を実際に給わった人の名前が挙げられています。

三代実録 (藤原時平、大蔵善行 等撰 / 901 年成立 / 全 50 巻。平安時代の歴史書。六国史の第六)
日本三代実録巻第四十三
元慶七年五月 / 五日庚午。天皇御武徳殿。 観四府騎射。 及五位已上貢馬。喚渤海客徒之。 親王公卿続命縷。 伊勢守從五位上安倍朝臣輿行引客。 就座供食。 別勅賜大使已下錄事已上続命縷。 品官已下菖蒲蘰
(参考文献 :『国史大系 第 4 巻 日本三代実録』経済雑誌社 編. 1901.)
九条殿記 (くじょうどのき : 藤原 師輔 (ふじわらのもろすけ、908 - 960 年) 著 / 930 - 960 年 / 平安中期の公卿 藤原師輔の日記)
天慶七年五月
五月五日の節會
女藏人十二人取續命縷、出從御座北、進於御前東庇、 西面烈 (列) 立、第一者留立南第四間、 式部卿一品敦實親王 件親王雖不候烈 (列)、依有先年宣旨昇從掖着座、 幷今朝預烈 (列) 親王三人 (重明 · 有明 · 章明) · 納言三人 (顕忠 · 元方 · 師輔) · 參議五人 (高明 · 保平 · 庶明 · 在衡 · 師氏) 一〃給續命續 (縷) 、小拝下殿、 (参考文献 :『大日本古記録 九暦』東京大学史料編纂所 編. 岩波書店, 1958.)
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朝廷から賜った薬玉は、宮廷の貴族達だけでなく、お寺にも贈られたようです。
この場合は、あやめの蔵人が拜舞する儀式の中で賜った。のではなく、薬玉配達人(注5)によってデリバリーされたようです。

西宮記 (さいぐうき、せいきゅうき、さいきゅうき : 源高明 (みなもとのたかあきら : 914 - 983 年) 著。成立年未詳。平安時代の有職故実書)
絲所獻薬玉二流、又差内豎送諸寺
(参考文献 :『改訂増補 故実叢書 西宮記』故実叢書編集部 編. 明治図書出版, 1993.)
延喜式 (藤原時平、忠平編集 : 927成立、平安時代の律令法典。全 50 巻)
巻第十五 内蔵寮
右、料物送絲所造備、但件菖蒲珮、供御幷人給料外十五條、 内豎爲使供諸寺
(参考文献 :『訳注日本史料 延喜式 中』虎尾俊哉 編. 集英社, 2007.)
北山抄 (藤原公任 (ふじわらのきんとう : 966 - 1041 年) 著 / 1012 - 1021 年成立 / 平安中期の有職書)
北山抄巻第六 備忘略記イ 奉幣諸社 (付神祇官御祈南殿御祈先陵奉御所祈雨祈晴等事)

天徳三年五月、奉幣使立日、擇申四日五日、而四日、依諸寺薬玉、被定五日、
(参考文献 :『改訂増補 故実叢書 31 巻 内裏儀式 · 内裏儀式疑義弁 他』故実叢書編集部 編. 明治図書出版, 1993.

諸寺の内訳

具体的なお寺は次の通り。延喜式によると 15 もあります。
東、西、梵釈、崇福、常住、東名、出雲、聖神、法觀、廣隆、東藥、珍皇、佐比、嘉祥、寶皇(2)

薬玉が贈られた記録

お寺に残っている記録です。

醍醐寺文書 (京都伏見区の真言宗醍醐派総本山醍醐寺に伝来する古文書、聖教。約 800 函、約 10 万点)
九七二 東寺年中雜事
定譽
東寺年中雜事幷御修法請文等

五月五日節供
同日藥玉使參來、儲酒肴、 (参考文献 :『大日本古文書 家わけ第十九 醍醐寺文書之五』 東京大學史料編纂書 編. 東京大學. 1966.)
僧圓智(注6)勸進(注7)
請以諸施主助成遂出雲寺(注8)造営狀

梅夏端午之節、藥玉之使必來、檀越和尚之誠、花香之勤無絕、 (参考文献 :『鎌倉遺文 古文書編第二巻』竹内理三 編. 東京堂出版, 1972.)

史料を荒らすと、朝廷からの薬玉は、たくさんの人が給ったことがわかりました。
レポートの答えは、

答え :

です。

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注釈 / 参考文献

注釈

参考文献

  1. 『全現代語訳注 続日本後紀』近藤豊 訳. 2000.
  2. 『訳注日本史料 延喜式 中』虎尾俊哉 編. 集英社, 2007.
  3. 4. 6. 『大辞泉』小学館,
  4. 7. 『世界大百科事典 第二版』平凡社, 2006.

レポート : 2012年 8月 9日

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