「醍醐寺文書 (京都伏見区の醍醐寺に伝わる古文書群。約10万点。一部は重要文化財指定) 」の第八函にある「東寺年中雜事」の中に、
という文があり、薬玉と一緒に酒と肴も来たっぽい感じで、ちょっとわくわくさせられます。
薬玉が贈答される時、ただ薬玉単品でというわけではなく、よく何かと一緒に贈られたようです。
その代表的なものが和歌。
あぁ、日本あっぱれ。と扇を回したくなります。
註釈 :
新千載集賀には、五月五日、枇杷皇太后 (妍子) に、菖蒲の根を奉らせ給ふ、上東門院とありて、これといさゝかたがへり。
◦ そこふかくの御歌 : かやうに奉れる菖蒲の根は、土ひぢの底ふかくねざして、ひけぬけども、絕えもせず、千年の齢をたもてる松の根にも、くらべつべき長き根なりとなり。
さて千年を待に、松をかけて、この皇女のめでたき御ゆくすゑを、あやめの根と松の根にたとへて、ほぎたまへるなり。此御歌、新千載集に載せたり。
◦ 年ごとの御歌 : 毎年五月五日にひける菖蒲の根にも、うちかはりて、こたびおくり給へる菖蒲は、他にたぐひもなき程長き例なることよ、
さてその根にたぐへ給へるこの姫宮も、長くめでたくおはすべしとの意なり。ひきかへは、あやめの縁語也。
このごろを 思ひいづれば あやめ草 ながるゝおなじじ ねにやとも見よ
御かへし、中宮 (妍子)いにしへを かくる袂を見るからに いとどあやめの 根こそ志 (し) げけれ
註釈 :
◦ この頃をの御歌 : 故院のかくれ給へる、去年の此頃の事を思ひ出づれバ、かなしさに泣かるゝことならむが、その同じ涙に、こなたも泣きをるにやあらんと、この藥玉をかくる、けふの菖蒲につけて、見給ひてよとなり。
あやめ草ハ、五日の物なれバ、ねといはむ料に、そへていへり。ねは、菖蒲のね (根) に、泣くね (音) をかけたること、例のごとし。
◦ いにしへをの御歌 : いにしへハ、去年の事をさしていへり。
さて、去年、院のかく失せさせ給へることを、心にかけて志 (し) のび、涙をそゝぎ給ふ袂を、見るとそのまゝ、
こなたも、一志ほ (ひとしお) 涙のひまもなく 志 (し) げし となり。
かくるは、かけて思ふよしに、涙をかくることをそへたるにて、菖蒲の縁語なり。
菖蒲草 (あやめぐさ) 底知らぬまの長き根に 深きといふや蓬生 (よもぎふ) の露 (つゆ)
返し、中納言菖蒲草 底知らぬまの長き根を 深き心にいかがくらべむ
(参考文献 :『新編日本古典文学全集 48 中世日記紀行集 弁内侍日記』岩佐 美代子 校注 · 訳. 小学館, 1944.)
第五 大内やま 後嵯峨、後深草二代の紀 仁治三年より寛元四年までの五年間
建長三年 (1251 年)
五月五日、所々より御かぶとの花、藥玉などいろ〳に多くまゐれり。朝餉にて、人々これかれひきまさぐりなどするに、三條 (の) 大納言公親の奉れる根に、
露おきたる蓬 (よもぎ) の中に、ふかきといふ文字を結びたる、絲のさまもなよびかに、いとえんありて見ゆるを、うへも御目とゞめて、何とまれいへかしと宣ふを、
人々もおよすけて見奉るを、辨内侍、
あやめ草 そこしらぬまの 長き根に ふかきといふや よもぎふのつゆ
とありつる使はやかへりにければ、藏人を召して殿上より遣はしけり。御返り、公親、
あやめ草 そこしらぬまの ながき根を ふかき心に いかゞくらべむ
(参考文献 :『日本文学大系 校注 第 12 巻』石川佐久太郎 校註. 国民図書, 1926.)
おまけです。薬玉に添えられた歌ではなく、薬玉を見て詠われた歌のようです。
年ごとの あやめの草に ひきかへて なみだのかゝる わがたもとかな
註釈 :
◦ 年ごとの云々 : これまで年毎の五月五日には菖蒲草かけしが、今年はそれにひきかへて母上もゐまさねば
今日この藥玉を見るにつけても悲しさの涙に袂も濡るるよとの意也。
花園天皇宸記にあるように、朝廷に献上するのは薬玉のほかにも菖蒲などがありました。その時に添えられていた和歌に関するおもしろいお話があります。
進上 水邊菖蒲
千年 五月五日 大江爲武
た (進) てまつり あ (上) ぐる かはべ (水邊) の あやめ (菖蒲) ぐさ ちとせ (千年) の さ月 (五月) いつか (五日) た (大) へ (江) せ (爲) む (武) 。
(参考文献 :『国史大系 第 15 巻』経済雑誌社 編, 黒板勝美 校訂. 経済雑誌社, 1897.)現代語訳 :
堀川天皇 (ほりかはてんわう) の時 (とき) に太宰帥 (だざいのそつ)
大江爲武 (おおえのためたけ) といふ人 (ひと) が
菖蒲 (しやうぶ) を獻上 (けんじやう) した時 (とき) 、
次 (つぎ) の如 (ごと) き狀 (じやう) を添 (そ) へて出 (だ) した事 (こと) があつた。
進上 水邊菖蒲
千年 五月五日 大江爲武
この文面 (ぶんめん) にある千年 (ねん) 五月 (ぐわつ) とは
不思議 (ふしぎ) だから、天皇 (てんわう) は
殿上人 (てんじやうびと) に何 (なん) と讀 (よ) むか
讀 (よ) んでみよと仰 (おほ) せ出 (いだ) された時 (とき) 、少將 (せうしやう) 師賴 (もろより) と云 (い) ふ人 (ひと) が考 (かんが) へ付 (つ) けて、
これは和歌 (わか) でござりませう、
た (進) てまつり あ (上) ぐるかはべ (水邊) の あやめ (菖蒲) ぐさ ちとせ (千年) のさつき (五月)
いつか (五日) た (大) え (江) せ (爲)
む (武)
とよむのと思 (おも) ひますと申上 (まうしあけ) たといふ話 (はなし) がある。
(参考文献 :萩野 由之『読史の趣味』東亜堂書房, 1915.)
アヤハドリ 漢織
名義 : 漢國より来りし機織を云ふ、アヤは漢の字をよみ、ハトリは機織 (ハタオリ) の約なり
起源沿革 : 書記に應神天皇二十年阿知使主歸化し、超えて三十七年二月に、阿知使主、都加使主等を呉に使し、縫工女を求めしめ、兄媛、弟媛、呉織、漢織る等を得て歸りしより、漢織の法傳はりて盛となる、
本居信長は、雄略天皇十四年正月、身狭村主⾭、檜隈民使博德等呉に使し、手末才伎 (タナスヘメテヒト) 漢織呉織、及び衣縫の兄媛弟媛等を率ゐて歸るとある始めなるを、應神天皇の御代、百済より服部を貢したる事を、誤り傳へたるなり、又呉織漢織を二人とするは誤りにて、漢織卽ち呉織の事なりとも云へり、綾 (アヤ) 呉織 (クレハドリ) 參看(古事記傳、工藝志料)
(参考文献 :『国史大辞典』八代国治 等編. 吉川弘文館, 1926.)
レポート : 2012年 10月 23日
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