古記録の個人が書いた日記の中で、薬玉の登場する記事が一番多い日記を讃えて、「キング オブ 薬玉古記録」と呼びます。
と、Mio さんが勝手に決めました。
その輝かしい呼び名で呼ばれることになったのが、
看聞日記 (かんもんにっき) です。

看聞日記 (かんもんにっき) は、室町時代の皇族、 伏見宮貞成 (ふしみのみや さだふさ (後崇光院) : 1372 - 1456 年、後花園天皇の実父) の日記で、 1416 年 から 1448 年までの 33 年間の記事があります (一部は欠けている模様)

その中で、薬玉の登場する記事は、ずわわっと調べたところによると 29 記事 (29 日) 、 年数にすると 20 年、つまり端午の節句が 20 回巡ったことになります。
33 年間も日記を書き続けること自体すんごいびっくりですが、 毎年、五月が来るたびに、くす玉について飽きもせずに書き綴っていることが、何より驚異的です。
古記録では、端午の節句に関する記事はあっても、薬玉のことがでてこなーい。 なんて日記が多い (もしくは普通だ) のに、本当に、本当に、素晴らしいことです。

この感動を皆様にも味わっていただきたく、看聞日記にある薬玉が登場するすべての記事をご紹介致します。
(せっかくなので、その日一日の全文を載っけています)

  • もし、端午の節句以外に薬玉の記事があったら、見落としている可能性があります。 ずぼらな性分が働き、五月の始め頃の記事しかチェックしていないので。
  • 古記録の個人が書いた日記の中で、看聞日記が一番だと騒ぎましたが、「個人」と限定しないなら、さらに上を行く日記があります。 それは、「御湯殿上日記 (おゆどののうえのにっき) 」です。
    御湯殿上日記は清涼殿で奉仕する女官達が付けた職掌日記で、 室町時代から江戸時代末期 (正本と写本を合わせて、1477 年 - 1826 年が伝存しているらしいです) まで書き継がれました。
    活字本として刊行されているのは 1687 年までですが、この中で薬玉のことが書かれてある記事は、ざざざっと調べて、70 記事 (66 年分) ありました。 (眠りながら調査したので、正確かどうかわかりまへん)

應永 廿三 - 應永 卅二

應永 廿三 年 五月
四日、
雨降、續命縷、室町殿幷若君被進之、常宗取次入見參、若君付女房被進、 御祝着之由有御返事、等持寺八講、今出川大納言出仕云々、
應永 廿四 年 五月

二日、
晴、三位出京、鹿菀院爲使參室町殿進物御手本一巻、 野跡詩、表紙青絹雲淡、水精軸、後光嚴院故親王二被進云々、 哥合一巻、伏見院宸筆、萩原殿爲御遺物大通院二被進、 巡方帶 ⾭瑠璃、号金⾭玉、床皮マキ銀組等有之、 副愚狀鹿菀院遣之、抑此帶細々不用者也、或記云、節會時次將用之云々、或説御賀時用之、 又帛御服之時主上着御云々、 先年故北山殿伏見殿初參之時、御引物可被進由有沙汰、 三條故内府 實繼公 令奉行、帶床金物 銀、被新調畢、 而異議出來不被進于今、 箱底秘藏而珍物之間只今獻之、 彼方へ有御緣歟、當吾代進之、不思儀也、聞、等持寺八講自今日始行、 今出川大納言出仕云々、善基參、仁王經奉讀、別而令祈禱、 女中藥玉經營無他事、 惣得菴、姫宮 予息 帷一被進、不思寄芳志也、

四日、
晴、早旦檜皮葺參、昌蒲葺之如例、心中詠之、

おもひきや あやめをことし 我やとの あるしとなりて ふかすへしとは
いまよりは 千世の五月を契なん けふふきそむる 軒のあやめよ

退 藥玉取整、紅薄様 菖蒲 敷之、入廣蓋納長櫃、退紅仕丁舁之、 以女房奉書付、常宗 (少納言入道) 進之、 室町殿等持寺御座之間、彼へ進之、常宗次之入見參、 不相替賜之条、目出悅入之由可申旨有御返事云々、 若君御方藥玉同進之、自入江殿被執進、 則有御返事、御祝着之由奉之、此外前々賜之人々皆遣了、自菊弟菖蒲根二具、 昌蒲枕等被進、毎年之儀也、抑禪啓任備中守、 此事大通院御座之時所望申之間、職事經興可申沙汰之由被仰了、 然而法躰任官近年武家雖有傍例、不可然歟之間、于今不申沙汰、然間、雖啓就山名金吾申云々、 其後被任備中守之由、柿屋 山名若黨以狀申禪啓、自愛無極、 但山名申沙汰、不審也、押而令受領歟、近日武家之儀如此、則禪啓賀酒申沙汰、 一獻及數獻、三位重有、長資等朝臣、壽藏主候、禪啓祗候賜御扇、

應永 廿五 年 五月
四日、
晴、早旦菖蒲葺如令、續命縷室町殿進之、付常宗進之、 若公内々付女房進之、御返事共御祝着之由奉之、藥玉前々遣所共皆賦之、 自菊弟御付根昌蒲枕等進之如例年、又射小弓、懸物如令、此間小弓興盛、枝葉事也、
應永 廿六 年 五月
四日、
聞、今月二日陰陽師在弘死去云々、殊不便也、

晴、菖蒲葺如例、 藥玉室町殿進之、付常宗如例、若公同進之、 内々付女房鳴瀧殿御喝食御所同進之、初度也、其外如例年遣之、聞、 相國寺今日轉經供養被行、故鹿菀院御影 法躰 安座轉眼、 鹿菀院主被供養云々、晩常宗返事、 藥玉毎年不相替祝着爲悅之由、 能々得其意可申由被仰云々、若公御返事同前、
應永 廿七 年 五月

一日、
晴、吉兆毎事幸甚々々、祝着如例、女中藥玉經營無他事、 用健來臨、暫雜談申、旬樂召長資朝臣令吹笙、雙調樂五、朗詠等有之、

四日、
雨降、御藥玉室町殿へ進之、付常宗如例、若公御方同進之、 付女房如例、鳴瀧殿御喝食藥玉進之、其外下地等面々賦之如例、 今日⾭蓮院有十種供養、前、左府、前源宰相等參云々、相國寺有大施飢餓、 抑傳聞、玉淵和尚被逐電、題目者飮酒事也、廣橋張行云々、彼卿も背御意云々、 此間世間口遊也、委細不能記之、常宗返事、御藥玉入見參、 目出之由得其意可申云々、若公御返事女房奉書目出之由奉之、

應永 廿八 年 五月
四日、
晴、室町殿藥玉事常宗申次、當年不出仕之間、裏松中納言二令申領狀之間、 付彼卿進之、廣蓋闕如之間柳莒居新儀也 、御方 (若公) 同進之、付女房如令、鳴瀧殿御喝食進之、其外如例年、 夜使者歸、藥玉毎年不相替賜之条目出祝着之由、裏松能々可申旨被仰云々、 御方有女房返事同前、菊弟菖蒲根枕等如例進之、新大納言聊小減云々、
應永 廿九 年 五月

二日、
雨降、等持寺八講始行如例、抑薬玉去年以裏松黄門進之、 任先例可被執進之由令之處、黄門此間違例不出仕云々、仍廣橋亞相二令申、 前々不申次乃間難治之由申、

四日、
檜皮葺參、菖蒲茸如例、藥玉室町殿進之、前宰相持參、 廣橋二付之、御方 (若公) 同進之、付女房、鳴瀧殿御喝食同進之、宰相入夜歸參、 續命縷廣橋申次入見參、御返事毎年不相替賜之条、目出祝着之由奉之、 御方御返事女房奉書之旨同前自仙洞被進、廣橋申次云々、八講朝座了等持寺二被歸、有談義、其間數剋待申、 及秉燭有御返事云々、

應永 卅 年 五月

三日、
晴、藥玉女中經營如例、

四日、
晴、續命縷、室町殿幷將軍進之、前宰相御使罷出、 廣橋此間違例不出仕云々、仍裏松中納言遣書狀、可被露之由令申、晩景宰相歸參、裏松八講出仕之間、 於等持寺令申之處、此間有 ? (やまいだれ + 持) 所勞、仍可早出之間申次不可叶云々、 頭弁宣光朝臣二雖令申、辭退之間失方角之處、自仙洞被進藥玉、 珻阿申次之間、以次珻阿二令申、則請取入見參、御返事毎年不相替賜之条、祝着之由奉之、 將軍御返事女房奉書如例、

應永 卅一 年 五月

一日、
雨降、吉兆毎事珍重々々、祝着如例、女中藥玉經營如例、

四日、
陰、菖蒲葺如例、室町殿續命縷進之前二前宰相持參、就廣橋雖入見參、 毎度不得機嫌間、勸修寺中納言仰付、領狀申之間付遣之、愚狀遣之、將軍藥玉付女房進之、 入江殿御喝食進之、初度之間万歳殊祝申、其外如例年人々遣之、 晩用健光臨一樽御随身、不思寄則賞翫、藥玉之使者入夜歸參、語云、 藥玉遅々間勸修寺數剋祗候待申云々、到來之間則入見參御祝着之由奉之、 將軍女房返事有之、入江殿殊目出之由承、

應永 卅二 年 五月

三日、
晴、惣得菴明元等參一獻申沙汰是賀礼也、宰相以下候、抑藥玉入江殿へ申付今日到來、 花殊勝也、前々御寮 (塔頭) 結之、而違例之間入江殿誂申了、

四日、
藥玉入江殿御喝食進之、其外如例賦之、

晴、菖蒲茸如例、續命縷室町殿へ進之、前宰相持參、將又廣橋小一獻遣之、 御經泥御助成申次之間其礼所遣也、又三條へ小一獻遣之、黄門勅別當被補、賀礼旁爲祝着遣之、 宰相爲使晩歸參、室町殿等持寺御座彼へ持參、廣橋申次、御返事毎年賜之条祝着之由奉之、廣橋一獻被下畏悅由申、 三条へも宰相持參、亞相八講出仕留守也、黄門對面殊畏入之由申云々、安樂光院長老參賀對面、抑地下人 三木舟津 一獻進之、禪啓執進之、就慶賀事乍恐進上之由申云々、

Topへ

永享 三年 - 永享 十年

永享 三年 五月
四日、
晴、續命縷禁裏室町殿進之如例、室町殿内々上﨟局へ進、勸修寺申次、 依斟酌如此、抑泉涌寺新命參來對面、是前住也、去晦日入院、 近年備中在國此間被召上再住、茶五十袋持參、
永享 四年 五月

三日、
後聞裏松 ␣ ␣ ␣ ␣ (中納言無力) 其儀云々、

晴、上﨟事西雲菴二返事申、可被參事不可有子細之由令申、主ハ旁難儀周章無極、 然而難故障之間無力先領狀申、若宮又發、所詮瘧病也、醫師賴豊良藥二種進之、 法安寺參、仁王經御祈禱申、御香宮參、長資、隆富等朝臣以下召具、庭田宰相歸參、 八講着座事廣橋 (奉行) 可參之由申間、結 (六日) 願可參之由令領狀云々、 其日可奏慶也、計會之由申、彼御佛事被行大赦、被突鼻相國寺僧喝食歸寺、裏松中納言大館樓者等有御免云々、 藥玉經營如例、

四日、
天王寺御喝食 藥玉進如例、其外如例年

晴、菖蒲葺檜皮葺參、如例續命縷内裏進之、室町殿付頭中將進之如例、 抑三条中將去月被補藏人頭、室町殿御執奏也、遣賀礼御劍一遣之、庭田宰相爲使去一日罷向、 貫首隆遠朝臣辭退云々、定直馬引進、御經布施馬闕如之由仰之間、立置馬進之由申神妙也、 於局有盃酌、兩宰相以下珠藏主等候及酒盛、是女中男共參宮餞送還礼也、

(裏書) 實雅朝臣貫首事、故内府入道 公豊 公 、 故大納言 實豊卿 、故大納言 公雅卿 、 三代中絕也、經貫首事强不庶幾云々、然而依御執奏被補、中絕再興、雖珍重非本望云々、

永享 五年 五月
四日、
晴、菖蒲葺如例、續命縷内裏進之、室町殿付三条進之如例年、其外妙嚴院御喝食進之、 御帷同進、勸修寺記錄三合返進、先年申出了、
永享 六年 五月
四日、
晴、内裏御藥玉進上如例、室町殿進之、若君も同進、初度付三条如例、 入江殿姫君二も進、千秋万歳之儀珍重也、御喝食入江殿へ御歸、東御方御共參、藥玉進之、 御帷一 縫物同進、御引物堆紅香合一、珪璋盆一枚、引合十帖進之、 公方御宮笥二可被進之間、重寳可進之由西雲被計申、仍秘藏物共進之、又折一合 素麺 、捶等進、 入江殿御宮笥也、抑源宰相息女 十五歳 御喝食共參、眞乘寺祗候、私物二可被召仕云々、 妙嚴院御沙弥之間、藥玉不進、人々藥玉賦之如例年、上様へ河魚、 鯉、驢八喉 紫笋二束、南御方進之、自妙嚴院音信捶等賜之、 禁裏勅報室町殿御返事藥玉目出之由承、若公藥玉伊勢許へ被渡云々、
永享 七年 五月
四日、
雨降、續命縷内裏進之、室町若公同進、付三条如例、眞乘寺御喝食、岡殿御喝食、 入江殿姫君、西雲養子 太炊御門前内府猶子、初而遣之、 等進之、 其外藥玉之下地共面々賦、如例年、南御方、入江殿參、競馬爲見物也、 春日御共參、入夜内裏室町殿有御返事、禁裏姫様へ藥玉、御帷三、練貫御服一、 勾當執進、珍重万歳之儀御祝着也、
永享 八年 五月

三日、
晴、藥玉經營如例、南御方蚊帳釣初、祝着有盃酌、 菊弟少將菖蒲進之、往昔進之、復舊儀當年初獻之、珍重也、茂成朝臣資繼參、不對面

四日、
晴、檜皮葺廿人許參、菖蒲葺新造亭、万歳之儀珍重也、 年來祝詞時節到來、祝着無極、續命縷内裏、室町殿、若公進之如例、 入江殿姫君、西雲養子 太炊御門猶子、 遣之、岡殿御喝食、其外如例賦之、 自内裏姫宮へ藥玉、御服、御帷被進、万歳之儀珍重也、今御所入來、 晩被歸、宏徳寺額 山門額 染筆 作字、行豊朝臣草之、 遣之、西宮地下人美物持參、太刀一被下、晝西京方有燒亡、夜持經一樽持參、有盃酌、

永享 九年 五月

三日
細河手合戰、敵方城一所責落云々、

雨降、藥玉經營如例、去一日大和有合戰云々、公方又可有御立之由風聞治定之様有沙汰、例之巷說歟、

四日、
晴、早旦檜皮葺參、菖蒲葺、千秋萬歳之儀珍重也、續命縷禁裏室町殿若君御方進之如例、 三条執進、御返事御祝着之由承、内裏有勅報、岡殿、入江殿、姫君、西雲養子 (太炊御門前内府息) 等如例、 康富參、續書如例、

永享 十年 五月
四日、
晴、菖蒲葺、檜皮葺、二三十人參、給酒如例、續命縷獻内裏、 勅報万歳御祝着之由被仰下、室町殿幷若君進之如例、三条若公初而進之、 御返事御祝着之由承、入江殿姫君西雲等進之如例、天王寺音信御祝之物給、 今御所入來夜被歸、新中納言歸參、瞿麥ハ雅親進云々、
Topへ

嘉吉 元年 - 嘉吉 三年

嘉吉 元年 五月
四日、
首廿九、六条河原被懸云々、

雨降、朝晴、菖蒲葺万歳之儀珍重也、結城以下首共實驗云々、 進御劒、女中無御礼、男共ハ參、續命縷公方若公兩所進之如例、内裏進之、有勅報、 万歳之祝着珍重々々、公方も御返事御祝着之由承、至夜三条被示、故武將 持氏 子息 十三歳 尋出討申之由、只今飛脚到來、御劔可被進之由被申、則進之、此事先日此城責落之時、子息達三人之内一人ハ切腹、 二人ハ生捕之由注進云々、然而腹切ハ虛說也、兄 十三 被沒落之由、後二聞、其人只今求出討申也、 於于今子息達悉被討之間、弥天下大慶也、 沒悉
嘉吉 三年 五月
四日、
晴、菖蒲葺如例、續命縷内裏進之、勅報御祝着之由被仰下、 若宮御方へ自禁裏御薬玉、御服、御帷色々被進、千秋万歳御祝着也、 室町殿御藥玉、付三条進之如例、若公不進、 兼不可進之由、内々奉之、康富參、論語談義如例、 聽衆隆富朝臣、有俊朝臣、重賢朝臣、伊成、定仲、政仲、照善等候、室町殿御返事目出由、三条被申、

(参考文献 :『看聞日記 乾坤』宮内省図書寮, 1931.)

レポート : 2012年 7月 26日

Topへ