1. 答え
答え :
違うモノです。
長命縷は五色の糸です。薬玉は菖蒲、蓬、時節の花々を束にして五色の糸を垂らした装飾物です。
薬玉が長命縷から進化し、長寿、厄除などの同じはたらきをするとは言え、中国で「長命縷」と呼ばれる物と、日本で「薬玉」と呼ばれる物の見かけが、べらぼうにかけ離れている事は周知の事実。か、どうか分かりませんが、一目みりゃ、おおおおっ !!! と、なります。たぶん。
次のナゾ
さて、そうすると、また新たに次のナゾが生まれてきます。
薬玉がさかんに贈答された時代の日本で、この長命縷と薬玉は区別されたのか。それとも、されなかったのか。
風俗史学者の江馬務氏は
最初は藥玉を菖蒲艾、續命縷を五色絲として別々のものであつたらしい。而しながらこの兩者は容易に混和する性質のものであるから程なく混和した。
とされ、さらに
藤原時代には藥玉といって續命縷をさし、混同されてしまつたのであつた
(参考文献 : 江馬務. "五月"『日本歳時全史』臼井書房, 1949.)
とされます。
おっと。いきなり、答えが出てしまいました。
さて、このアンサーがファイナルアンサーとなるのか、新しい発見があるのか、わくわく詳しく検証してみたいと思います。
2. 区別されていなかったぽい史実
江馬氏の言われる「藤原時代」というのが一体いつぐらいなのか、えらく曖昧なので、ピントを合わせてみたいと思います。
続日本後紀の薬玉と文徳実録の長命縷
文徳実録に「嘉祥二年五月五日」の節供ついて及んでいる記事があります。この日はあの続日本後紀の記事(注1)
と同じ日です。しかし、一方で薬玉といい、一方で長命縷と言っています。
- 続日本後紀 (しょくにほんこうき : 藤原良房、藤原良相、伴善男 等撰 / 869 年成立 / 平安時代の歴史書)
- 続日本後紀巻第十九 嘉祥二年 (八四九) 正月ヨリ閏十二月マデ
戊午、天皇御二武德殿、一覽二馬射、一
六軍擁レ節、百寮侍レ座、有レ勑、命下二文矩等一陪上宴宣レ詔曰、
天皇我
詔旨良万止宣布勑命乎
使人等聞給止宣久
五月五日爾
藥玉乎佩天飮レ
酒人波命長久福有止奈毛
聞食須、故是以藥玉賜比、御酒賜波久止宣、
日暮乗輿還宮
(参考文献 :『六国史 巻七』朝日新聞社, 1941.)
- 文徳実録 (もんとくじつろく : 藤原基経、菅原是善 らの撰 / 879 年成立 / 平安時代の歴史書。10 巻。六国史のひとつ)
- 文徳實錄 巻第九 文徳天皇 天安元年十一月
嘉祥二年春、渤海客入朝、五月五日皇帝幸二武德殿一、
賜二宴於賓客一、有レ勑、
擇下侍臣之善二辭令一者上、以爲二應對之中使一、其日賜二長命縷一佩レ之、
使者賓客歓二其儀範一、
(参考文献 :『六国史 巻 7 文徳実録』佐伯有義 編. 朝日新聞社, 1930 年)
年中行事書、有職故實書
平安時代を代表する公事書には「続命縷」に、薬玉ことだと註釈してあります。
- 内裏儀式 (だいりぎしき : 撰者、成立年未詳 / 平安前期の儀式書。
内裏儀式を基に補正したものが「内裏式」と考えられている)
-
漢女草収牧之内藏寮稱唯率數人更參入取菖蒲机 (イナシ) 退出有頃
藏人等各執續命縷。此間謂藥玉。
(参考文献 : 『改訂増補 故実叢書 31 巻 内裏式 · 内裏儀式疑義弁他』故実叢書編集部. 明治図書出版, 1993.)
- 儀式 (ぎしき : 撰者未詳 / 873 年 - 877 年 ? / 平安前期の宮廷儀式書。貞観儀式とも)
-
儀式 巻第八
女藏人等執二續命縷ヲ一
此間ノ語藥玉
(参考文献 :『改訂増補 故実叢書 31 巻 内裏式 · 内裏儀式疑義弁他』故実叢書編集部. 明治図書出版, 1993.)
- 内裏式 (だいりしき : 藤原冬嗣 (ふじわら ふゆつぐ、775 - 826 年) ら七名の撰、
清原夏野 (きよはらの なつの、782 - 837 年) ら 改訂 / 821 年成立、833 年改訂 / 平安前期の有職故實書)
-
巻第七十九 内裏式中
女藏人等執二續命縷一。此間謂二
藥玉一。
(参考文献 :『群書類従 第六輯 律令部 公事部』塙保己一 編纂. 続群書類従完成会, 1932.)
続日本後紀、文徳実録、上記の公事書から、続命縷と薬玉は、平安時代にはどうやら区別されていなかったっぽいことが分かります。
江馬氏の言われる「藤原時代」とは「平安時代」を指す確立が高そうです。
3. 区別されていたっぽい史実
しかしながら、両者が区別されていたような記録もあります。
平安時代の法典、延喜式には、薬玉と続命縷の両方について書かれていますが、材料を見るとふたつを区別しているようです。
続命縷の材料は、糸が 50 絇、紅花大三斤とあります。紅花は飾るための花ではなく、糸を染めるための花です。大 1 斤は、約674g(1)。
そして、薬玉の材料は、菖蒲、艾、雑花 10 棒とあります。
- 延喜式 (えんぎしき : 藤原時平 · 忠平 等編 / 905 年編纂開始、927 年成立、967 年施行 / 平安時代の法典)
-
- 巻第十二 中務省
- 藏司
五月五日續命縷料、絲五十絇、紅花大三斤、
(参考文献 :『訳注日本史料 延喜式』虎尾 俊哉 編. 集英社, 2000.)
- 巻第四十五 左近衛府
-
凡五月五日藥玉料、菖蒲艾 惣盛二一輿一、雜花十捧、
諸衛府別一日、依レ次供レ之。
(参考文献 :『国史大系 第 13 巻』黒板勝美 校訂. 経済雑誌社 編. 経済雑誌社, 1897.)
4. すっかり区別されていないっぽいような史実
時代は下りますが、室町時代の皇族、伏見宮貞成 (ふしみのみや さだふさ (後崇光院)) の書いた日記、「看聞日記」は、「続命縷」「薬玉」の両方の単語があちこちに飛び交っています。
室町殿へ進 (まいら) す「続命縷」が翌年には「薬玉」となっていて、
その後も「続命縷」「薬玉」の単語は入り乱れています。この時代になると、どうやら両者はすっかりごっちゃになっていた。と考えても良さそうです。
- 看聞日記 (伏見宮貞成 (ふしみのみや さだふさ (後崇光院) : 1372 - 1456 年、後花園天皇の実父) / 1416 - 1448 年 / 室町時代の皇族 後崇光院 の日記)
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-
應永 廿五 年 五月 四日、
晴、早旦菖蒲葺如令、續命縷室町殿進之、付常宗進之、
若公内々付女房進之、御返事共御祝着之由奉之、藥玉前々遣所共皆賦之、
自菊弟御付根昌蒲枕等進之如例年、又射小弓、懸物如令、此間小弓興盛、枝葉事也、
- 應永 廿六 年 五月 四日、
聞、今月二日陰陽師在弘死去云々、殊不便也、
晴、菖蒲葺如例、
藥玉室町殿進之、付常宗如例、若公同進之、
内々付女房鳴瀧殿御喝食御所同進之、初度也、其外如例年遣之、聞、
相國寺今日轉經供養被行、故鹿菀院御影 法躰 安座轉眼、
鹿菀院主被供養云々、晩常宗返事、
藥玉毎年不相替祝着爲悅之由、
能々得其意可申由被仰云々、若公御返事同前、
(参考文献 :『看聞日記 乾坤』宮内省図書寮, 1931.)
薬玉が登場するすべての記事はこちら。
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5. ナゾな名前「薬玉の絲」
時代はさらにずっと下って、戦国時代。
権大納言 山科言継 (やましなときつぐ) の日記「言継卿記」の 1544 年 5 月 3 日に、「くす玉の糸」なるものが登場します。織手の司とあるので、本当に糸だけのことを指しているっぽいのですが、しかし、もしそうだとすれば、すでに糸のことを「続命縷」とは言わなくなっている、ということになる......。
などと思っていたら、1570 年の記事では、「續命絲之絲」とあります (しかも (縷カ) などとツッコミを入れられている) 。
続命縷はもともと五色の糸を指していたはずなので、續命絲の絲とはおかしな言い方のようですが、この頃には、続命縷の元の意味さえ失われつつあった。とも、考えられます。
(それとも、「毛糸の糸」のような言い回しだらぁか (鳥取弁) ......by Mio さん)
- 言継卿記 (ときつぐきょうき : 山科言継 著 / 1527 - 1576 年 / 戦国時代の公家 山科言継の日記)
-
- 天文十三年 (1544 年) 五月
三日、辛丑、天晴、戌刻より雨降
織手の司 遠山右京進 所より、
くす玉の糸五色如例年進了、同井上三色つヽ二包出之、例年五色之處、如此之間是者返遣了、
- 永祿十三年 (1570 年) 五月
四日、辛未、天晴、自今日入漬歟、水曜星也、
織手大宮司、へうたんの通子司自兩人、續命絲之絲
(縷カ) 五種宛、如例年出之、珍重々々、
(参考文献 :『言継卿記』國書刊行會 編纂. 続群書類従完成会, 1998.)
山科家の「薬玉の糸」は、まだまだ続きます。山科言継の次男、山科言経 (やましなときつね) の日記「言経卿記」には、薬玉に関する記事が 8 件ありますが、いずれも「藥玉の絲」となっていて、続命縷という単語はさっぱりどこにもありません。この藥玉の絲なるものが、本当に薬玉の糸だけなのか、それとも薬玉を指しているのかがナゾもナゾなところです。
- 言経卿記 (ときつねきょうき : 山科言経 著 / 1576 - 1608 年 / 安土桃山時代の公卿 山科言經の日記)
-
天正七年 (1579 年) 五月
一日
藥玉ノ絲
一、小川善大夫 (宗久) 礼二來了、來五日クス玉ノ糸持來了、
(参考文献 :『大日本古記録 言經卿記』東京大學 史料編纂所. 岩波書店, 1959.)
残りの記事はこちらへ
薬玉を贈答する習慣はいつまであったのか
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6. 結論
検証の結果をまとめてみます。
こたえ : 平安時代頃には、
区別される事もあったし、区別されなかった事もあるし、ごっちゃに使われる事もあった。
「なんじゃそりゃ」の代表のような答え方ですが、たぶん、そうだったんじゃないかと推測します。
要約
-
いつかははっきりとは分かりませんが、おそらく、長命縷や続命縷が薬玉に進化したての頃らへんは、両者は区別されていた。
- 両者が文献に登場するようになった平安時代には、すでにごっちゃになっていたっぽい。南北朝時代にはしっちゃかめっちゃか。
- 戦国時代頃になると、五色の糸は続命縷と言わなくなっている。
以上です。新しい発見は、3 番。
最後に、そんなん、誰だって分かる。というツッコミを期待しつつ、はっきり分かることをひとつ。
「今現在、どうやら「長命縷」「続命縷」という呼び方は、日本には残っていないようです」
余談 :
中国では「長命縷」という呼び方が一般的なようですが、日本の古典籍を調べると「長命縷」よりも「続命縷」という呼び名の方が、圧倒的に多く使われています。何故かはわかりません。不思議です。
注釈 / 参考文献
注釈
- 注1 : 百科事典などで、「最初」と言われている日。
参考文献
- "『延喜式』の度量衡".『訳注日本史料 延喜式』虎尾 俊哉 編. 集英社, 2000.
レポート : 2012年 11月 22日
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