じゃぁ、ユニット折り紙、くす玉折り紙、それぞれかぶってない作品には一体どういうものがあるのか。
気になるところなので、粘り強く追跡調査です。
言葉を変えると 「ユニット折り紙で "くす玉" 以外を表現している作品 (多面体は除く) 」 ということが言えると思います。
たとえば、それから、 「 "くす玉折り紙" の特徴を持っていない "ユニット折り紙" 」 も、ひょっとすると「くす玉折り紙じゃないユニット折り紙」と言えるかもしれません。
たとえば、こちらも同じく 「 "ユニット折り紙" の特徴を持たない "くす玉折り紙" 」 ということが言えると思います。
上記で「まとめる (組み立てる) processが無い」ということを条件にあげてみましたが、これは使われているパーツがひとつの場合です。ですが、もちろん「いくつかのパーツを使い、 (まとめ材の使用の有無を問わず) それらをまとめる (組み立てる) processが無い」などという作品も、可能性としては考えられるかと思います。
おもしろそうなので、それについてもう少し張り付いてみることにしました。
たとえばどういった作品なのか。
結論
"複数のパーツを使い、まとめるprocessが無い" 場合、
その作品は どうやら"くす玉折り紙" でも "ユニット折り紙" でも無いっぽい。
しかし、しかし、しかしながら、
何が「くす玉折り紙」かと言えば、本人が主張するなら、何でも「くす玉折り紙」になりうる。
という法則は、いつでも有効。というのが Mio さんの持論です。
えらく荒っぽいけど、何を表現しているかは本人の主観的な部分が大きくて、それでもって芸術の世界とはとりもなおさずそういうものだ、と、Mio さんは信じているからです。
一方、ユニット折り紙の場合は、
何が「ユニット折り紙」かと言えば、本人が主張するなら、何でも「ユニット折り紙」になりうる。
という法則は成り立たないと Mio さんは思っています。
なぜかと申しますと、「くす玉折り紙」の場合は主観的に「何を表現しているか」をうんぬん言っているのに対し、「ユニット折り紙」は客観的に作品の構成について事実を語っているからです。
たった一枚で成り立っている作品を「ユニット折り紙」だと言えないし、たくさんのパーツから成り立っている作品を「ユニット折り紙じゃない」とも言えません。
それでも「自分の創った作品だけん、何のジャンルか、なんちゅーもんは自分で決めるっちゃ! (鳥取弁)」なんて勇猛な方もあるかもしれません。
Mio さんにとっては「それもあり」です。
しかしながら、それを「新しい芸術の幕開け」と捉えてもらえるかどうかは微妙なところ。「何かあったの?」などと心配される危険性の方が、限りなく「大」かもしれません。
いかんせんこの場合、本人の主張とは関係なく、その人の「人格」やら「日ごろの行い」のようなものが関わってきそうです。
まぁ、いずれにしても、自己責任ということで。
report : 2011年8月11日
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