野田俊作氏の論文「二十世紀前半の思想状況の中でのアドラー心理学」読みました。

Alfred Adler

「男女参画事業」はグローバリズムのプロパガンダ。という説にショックを受けて、アドラー心理学のことを調べまくったよ。

調べまくった。と言いつつ、実はそんなに調べてなかったりする。
すぐに資料が見つかったからなんだな。どこにあったかというと、一般社団法人アドラー心理学会のHP(←笑うとこ)。

そのHPの論文集の中に『二十世紀前半の思想状況の中でのアドラー心理学』という野田俊作氏の論文があって、アドラーと政治的な関係が書かれていた。

結論から言うとアドラー心理学とグローバリズムは無関係。というより、むしろ野田俊作氏はグローバリズムを批判しているようだぜ?

アドラーは政治と距離をとり続け、「共同体感覚」という思想の普及に努めました。アドラーが社会民主党と距離をとり続けたことから、共同体感覚という思想は、社会民主主義でもないし、共産主義でもないし、もちろんファシズムでもない、ある特殊な立ち位置の思想だったということがわかります。(二十世紀前半の思想状況の中でのアドラー心理学 / 野田俊作)

あぁ、やっぱり、そうなんだぁ。
そうか、そうか。よかった。よかったぁ。

共同体感覚という概念があるから、絶対グローバリズムになりえるわけないんだよな。こんなの、アドラー心理学をきちんと理解していればすぐにわかるのにな。中途半端にしか勉強してないから、すぐにおかしな妄想に走っちまうんだよな。やれやれ。

さらに、この論文の中で野田俊作氏はこう述べられている。

シュトラウスが『自然権と歴史』の講演で話題の中心にしていたのは、アメリカです。「多様性ないし個別性の尊重」という考え方を「天賦の人権」として不寛容に他国に強要することに、アメリカ人はあまり矛盾を感じないようです。世界中の自由主義的相対主義者はそれに同調し、きわめて不寛容な人権思想が世界を覆うようになりました。その思想によれば、人権思想に反対する人は、人権を剥奪され迫害されてもよいようです。そのために、戦争を起こして人を殺すことだってします。戦争までしなくても、あらゆる局面でそういうことが起こっているように思います。いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」はその現象の一例です。 (二十世紀前半の思想状況の中でのアドラー心理学 / 野田俊作)

そうなんだよな。グローバリストたちは「多様性の尊重」とか言いつつ、それ以外の多様な思想、例えばナショナリズムとかは認めないんだよな。へーんなの。

社会全体を、原因からではなく目的から、すなわち「ネガティブなものをなくす」という方向からではなく、「ポジティブなものを築く」という方向から、考えなおしてみよう。そうして、新しい社会科学を、たとえ時間がかかってもいいから、築いていこう。《存在》と《当為》を峻別する西洋思想の最も根源的な迷妄から脱け出そう。死んだ機械論的な人間観・社会観を脱け出して、生きた生命論的な人間観・社会観にもとづく社会科学を作ろう。アドラー心理学は、そのための出発点になると信じています。 (二十世紀前半の思想状況の中でのアドラー心理学 / 野田俊作)

野田俊作氏のこと

野田俊作氏が亡くなったのを知ったのは、実は今年の初め頃。
私は勝手に野田先生は150歳くらいまで生きるだろうな。と思っていたので、亡くなったという記事を見て、結構ショックだった。

野田先生には何度もお会いしたことがある。なんでかって言うと、私がアドラー心理学を知った1990年代後半ごろ、当時は大阪に住んでいて、アドラーの事務所が徒歩圏内にあって、用もないのによくふらふらと遊びに行っていたから。(←笑うとこ)

野田先生は、とても背が高くがっしりとした体格の人だった。そして、よく面白いことをおっしゃられていた。

「『親の言うことは、大きくなればだとわかる。』とか『よいコミュニケーションは小さな嘘から。あら、あなたそれ素敵な服ね。』とかね。アドラー流語録集のカレンダー作ったらいいかもね。」

みたいなことを話されていた。聞いた時、おかしくてケラケラ笑った。

ほかにも、何かのセミナーだったか、

「僕は眠れない時はすぐに寝ません。難しい本を読みます。そしたらすぐにコテッと眠れます。」

とか話しておられた。
とにかく私にとってはおもしろい先生だった。

野田先生が提唱された『ポジティブなものを築くという方向からの、生きた生命論的な人間観・社会観にもとづく社会科学』。

しょぼい脳みそだけど、私も、私なりに、考えてみようかな。



性格は変えられる (アドラー心理学を語る1)


グループと瞑想 (アドラー心理学を語る2)

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